名工大 D38 同窓会

名工大 D38 同窓会のホームページは、卒業後50年目の同窓会を記念して作成しました。

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前田・宮口・三山
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私と鶴舞カントリークラブとの縁 、 前田和男

私も来年で85歳になる。脊椎管狭窄症と言われ腰痛を気にしながらもゴルフは月2回ぐらい続けて来ているが、来年も続けられるか不安を抱えている。しかし先日、フロントで来年もクラブバッグを長期預かりしてくれるか聞いたところ承諾を得たので延長手続きを行った。年間8,000円弱で預かってくれるので、年寄りの身には着換用衣類だけを持ち運びするだけでプレーできるので有り難い。

そもそも私が何故鶴舞カントリークラブと縁ができたのか振り返ってみたい。私がそもそもゴルフクラブを握ったのが、アルジェリアに長期出張しているとき、宿舎の裏に砂漠のような砂地と草が生えた空き地があったことである。ここで誰かがドライバーとアイアン2-3本持ってきていたので、ボールを打っては拾って遊んだことがゴルフに初めて興味を持ったことである。

アルジェリアの長期出張から帰ったのが昭和54年(1979年)、37歳の時である。ちょうどこの時、成田国際カントリーが土曜日にプレーできる平日会員権を50万円で募集していたので購入した。ちょうど会社の先輩の3名がメンバーであることを知ったのでご一緒にプレーさせて貰った。このコースの良いところは成田の滑川駅からクラブバスで5分と便利なところにあった。ただ、コースの幅は狭かった。

一方私が勤めていた東洋エンジニアリングの親会社である三井東圧化学は肥料を製造していた。この肥料の効能を研究するために成田にゴルフ場を経営していた。このゴルフ場が成田空港の計画地にあり立ち退きを迫られ補償金を得て市原の鶴舞に新たなゴルフ場を建設することになった。これが鶴舞カントリークラブである。設計者は当時ゴルフ場設計では評価の高かった井上誠一氏であった。補償金を得たためか、広大な土地に36ホールという当時としては雄大な構想でゴルフ仲間では評価の高いコースであった。これを運営していたのは房総興発という会社で三井東圧、東洋エンジニアリング、大成建設が主要株主であった。

鶴を模したクラブハウス

桜で有名な東コースのショートホール

 平日限定だが株主優待券が何枚かあり、会社の仲間と平日に年休をとり、良く利用させて貰った。朝早くから18ホールを終え、午後からまた、18ホールに挑戦して、受付の女性から“好きね”とよく冷やかせられたことである。

私の友人であり、後輩であるD39の赤木君が本社の契約室にいた。当然、昭和46年(1971年)オープンした鶴舞カントリーの会員権販売の情報に接していた。彼は当然初期募集に応募し80万円の会員権を持っていると聞いた。彼と鶴舞カントリーでプレーしたかったが土曜日のプレー費が結構高かった(鶴舞カントリーは今でも周囲のコースに比べてプレー費が高いが・・・)のでご一緒できなかった。そうこうしているうちにイラクに長期出張となった。イラクでは宿舎の周囲は砂漠であったので、休日はいつもドライバーでボールを打っていた。しかし、ボール拾いは大変であった。毒蛇やサソリに遭遇するからであった。

1年後にイラクから帰国後、狭いコースで気に入らなかった成田国際カントリーの会員権を売り、鶴舞カントリーの会員権を購入することにした。当時、新規会員権の販売計画はなかったので市場で購入するしか方法がなかった。会員2名の推薦が必要ということで赤木君と株主会員だった会社の先輩に推薦を依頼した。その後鶴舞カントリーの支配人同伴のプレーテストということになった。マナー違反がないかどうかの実地テストであった。そしてようやくオープン8年目の鶴舞カントリーの正会員となることができた。額面180万円の会員権を310万円、名義返還料50万円、会員権斡旋手数料約10万円で日曜祝祭日のプレーが出来るようになった。しかし、2年ほどしてまたタイに3年ほど長期出張となったので正会員の味わいが遠のいた。

タイでは本当にゴルフを楽しんだ。タイ南部でプラントの建設が業務だったが、近くにタイ海軍がゴルフ場を運営していた。本来は厚生施設が目的だったのだろうが、友好的なアプローチをしたためか会員並みにプレーを許された。厚生施設なので、スコアカードも手書きの物をコピーした程度の物を使っていた。私は、5万円ぐらいを接待費で奮発して正式なスコアカードを印刷業者に発注して寄贈した。当然、東洋エンジニアリングの名前を印刷することを忘れなかった。自宅に1枚保管してあったがコース所有している「SATTAHIP  NAVY  GOLF  CLUB」より大きな文字していたことには驚いた。下部に小さく印刷した 記憶があったが、実物を見るとTECがコースを所有しているようである。

寄贈したスコアカード、裏はスコア記入欄

日曜日は楽しいゴルフ日が続いた。いつの間にか本社の担当常務の耳にも入ったのか、現場の連中は仕事そっちのけでゴルフをしていると思われお叱りを受けた。現場の最高指揮者はお詫びしたと聞いた。私は、プロジェクトマネージャーであったが3つのJOBを統括するジェネラルマネージャーがお詫びをいれた。ということで3年間の長期出張もアルジェリア、イラクに比べれば、あっという間に過ぎた感がした。

タイから帰国後は、国内業務の子会社に移動となり、赤木君と会社の先輩会員を交えて土曜日に4名で良くプレーすることが出来た。赤木君とは月例会や開場記念杯、新年杯等クラブの正式競技に参加した

赤木君が平成25年(2013年)に70歳程で若くして逝去するまで鶴舞カントリーのクラブライフをエンジョイした。ただ、私が正式に練習場等で指導員の教えを請わなかったことや大学での剣道部の癖でパンチショットを多用して、ゴルフスイングがなっていなかったことが災いしてドライバーの飛距離が200-220ヤード止まりで、ミドルホールでも400-420ヤードある鶴舞のバックティからの競技では勝ち目が無く、入賞することが出来なかった。白色ティで勝負する開場記念杯や新年会等の競技では入選してカップや記念品を頂いた。ハンディキャップも16が最高でBクラスに甘んじた。(注:Aクラスはハンディキャップ13以上)

赤木君が亡くなった後は土曜日プレーが出来る平日会員権を持っている後輩の友人とプレーを続けていたが、昨年から正会員の年会費が約10万円に値上げした機会に脱退を決意した。クラブには約40年強お世話になったことになる。ロッカーを返上したが、今年からゴルフクラブを長期預かりという形でサービスを続けて頂けるのでプレーは続行している。

クラブの月例会の入賞が逸したが開場記念等は結構頂いた。退会時に大部分捨てたが気にいった2点は残してあるのでご紹介します。また、鶴舞カントリークラブで競技した東洋エンジニアリングの関連会社ゴルフ競技で優勝したのでこれも記念に残した。

             

鶴を描いた扇子の飾り物    鶴をイメージしたカップ      優勝杯

 

ただ、鶴舞カントリーの会員権は市場で1千万円まで高騰したことがあるので、贅沢な遊びを続けていると家族からはブーイングが絶えない。私がここまで長生きを出来たのがゴルフという息抜きがあったことが良かったのではと言い訳を続けている。

2023/11/11記

信州・紅葉をめでる旅:< 軽井沢 、小諸、別所温泉> 、 山本 雅晴

10月29日から11月2日に軽井沢・小諸・別所温泉に紅葉を求めて散策した。幸い好天に恵まれ紅葉も見頃であった。軽井沢などは外国人を含め大賑わいだった。1日目は旧軽井沢、2日目は小諸、3日目は中軽井沢。

(注:以下はPDFファイルでご覧ください。 管理人)

軽井沢・紅葉の旅2023-10 軽井沢その2・美術館 軽井沢紅葉の旅3~小諸 紅葉旅その4別所温泉

 

加藤元久君の「駒ヶ岳メモ」を読んで。 鈴木直久

彼が折にふれて詳細なメモを作成することは、かねてから承知していた。

それでも今回読ませていただいた「駒ヶ岳メモ」には本当に驚いた。何しろ61年前の名工大時代の記録なのである。しかもぼくは一緒に木曽駒ケ岳に登った三人のうちの一人である。

だからぼくにとっても非常に懐かしい思い出である。

その登山について、若干の補足説明と感想をまとめておくことにしたい。

1962年7月23日の夜、分校の近くだった思う羽田君の下宿を加藤君と一緒に訪れた。羽田君とは特別親しくしていなかったから、前川研の卒論仲間だった加藤君からその登山計画を知ったのだろうと思う。

ぼくは3000m級の高山に登ったことがなかったから体力に懸念があった。「鈴木君も行く決心がつく」と書かれているのはそのためだったのだろうと思う。

7月25日

中央線大曾根駅発の始発に乗車し、9:19上松駅で下車した。快晴だった。路線バスで二合目の登山口に行き、登山を開始した。

夕方加藤君が足に痙攣を起こしたので、登るペースが落ちた。

登山路と谷を隔てて向かい側の三ノ沢岳(2846m)に湧き上がってくる雲が壮観だった。

19:30 玉の窪小屋(現在の玉乃窪山荘だと思われる)着と記録されているように、日入時刻をやや過ぎていた。

7月26日

快晴。玉の窪小屋は駒ケ岳頂上の直下にあるから、難なく山頂に登ってご来光を拝むことができた。頂上から眺望できる高山は全て見えたはずであるが、山の知識のなかったぼくが確認できたのは富士山だけだった。それでも十分満足した。

濃ヶ池に向かう途中で「唯一の黒ユリを見つける」と記録されているが、その黒ユリをぼくも一緒に見た。

濃ヶ池行きを断念して引き返し宝剣岳に登った。その頂上で一人の男が逆立ちをしたので、度肝を抜かれた。

「18時頃宮田小屋着」と記録されているのは現在の宝剣山荘のことだろうと思う。

7月27日

福島側登山口に下り、偶々通りがかったトラックに福島駅まで同乗させてもらったと記憶する。

両君とは福島駅で別れて、翌日、二年前に死去した父の新潟県妙高市の故郷を訪れた。

なお、その二か月半後に、山本雅晴君と加藤君と三人で上高地を訪れたのも懐かしい思い出である。

羽田君にはその後会っていないが、三菱江戸川化学(現在の三菱ガス化学)に入社したと聞いたことがあるような気がする。一年後輩の卒業生が知っているだろうと思う。

以上

尾瀬探訪  平坦地でも運動量、健康量は稼げるのか、 山本信夫

10月27-28日、もうシーズンオフで空いてきた尾瀬に行ってきた。山のトップ(頂上)を目指さない登山は久しぶりだ。

まず戸倉から鳩待峠(1591m)まで小型バスで上る。鳩待峠は至仏山(2228m)登山の他、数回きているが、今回その頂上あたりで大きい建物が建設中であった。

鳩待峠10時20分発、尾瀬ケ原の西の玄関口の山の鼻(1400m)まで3,3kmを下る。そのほとんど木道が敷かれているが、前日の雨で用心肝要。山の鼻11時35分着。写真②のように、前日までに降った雪が残っている。昼食を取り、上田代あたりまで散策しつつカメラ撮影。有料トイレを済ませ、山の鼻13時発、鳩待峠14時10分着(5300歩)。

つまり、1日目の運動量は、約8kmで約15000歩となったが、戸倉の旅館では、温泉に浸り、夕食では飲食とも、通常の倍くらいの食欲であり、熟睡もできた。

結局は、平坦地であっても(山の頂に達せずとも)運動量は稼げるし、健康量も得られることが証明された。

写真① 鳩待峠休憩所 この向かいに大きい建物建設中

写真➁ 山の鼻 残雪あり

写真③ 尾瀬ケ原の草紅葉と、奥には燧ケ岳

 

写真④ 尾瀬ケ原からみた至仏山

美術鑑賞記<東京都現代美術館:デヴィッド・ホックニー展> , 山本 雅晴

10月14日(土)天気が良くお出かけ日和だったので、11年ぶりに東京都現代美術館の「デヴィッド・ホックニー展」を観に行くことにした。地下鉄東西線の木場駅から木場公園の中を通って約20分かかった。木場公園も昔の木場を埋め立てて、40数年前にできたが、今では各種の木々も大きくなり緑豊かになった。園内では江東区の秋祭りが行われており、出店もあり賑わっていた。ここで、少し寄り道をした。

(注:以下はPDFファイルでご覧ください。尚、PDFファイルを更新しました。理由は、山本さんのファイルを私のWordで読み込んだ時に余白の標準設定が異なっていたためです。再度図面の配置を修正しました。管理人)

美術館賞記^7ホックニー2023-10rev2

二度目のトルコ旅行 (2023.6.11.~19)その1、 山田 稔

どこかに行きたい、2019年2月の南米旅行以来コロナ禍でどこにも出かけていない。

思い出深いトルコへ行ってみよう。27年前に行った時の写真の保存状態が悪かったために、写真が全滅。カタール航空では、サーチャージャーを取られない。おまけにJTB旅物語のツアである。この歳でたまにはデラックスな旅行もしてみようと思い立った。

誰かに「海外旅行はどこをお勧めですか」と問われたら、その一つに必ずトルコを挙げることにしてい

た。その歴史的遺跡、景観、トルコ現地の人々の親日的な応対・人、食事など、トルコを初めて訪れ

る人にがっかりしたという人はないだろう、期待を裏切ることはないだろうと思っている国の一つであ

る。もちろん、自分としても思い出深い、ある意味で旅を始める原点にもなった所である。旅中の

数々の人との出会い、トルコの人たちとの出会い、好奇心をそそる景観、無造作に転がっている歴

史的遺物、それほど高くない諸物価、食事、、、など。かっては、これらを何の制約もなく、独りで気ま

まに歩き回った。今はどこでもそうであろうが、やはりこの27年間の変化は、大きい。空港、道路、地

下鉄、街中のビル・店舗の並びなど全く整備され、近代化されていた。トルコにいるという実感もない

くらいだ。国のお金と人手不足により、手つかずの歴史的遺物はまだあるようで、現に今も少しずつ進

められてはいるが。

トロイ遺跡、カッパドキア、エフェソス、パムッカレなどの観光地では、かっては誰でも自由に域内に

は入れたのが、今では仕切りが設けられてしっかり入場料を取られる。域内の外には、土産物店が

並ぶ。しかも、トイレも有料だったり。

カッパドキアでは、かってのバス停がどこだったのか、全く分からない。探すことを止めて、今のトルコ

を素直に見ることにした。

トロイ遺跡:木馬は修復中で、養生に囲まれ全体は見えなかった。トロイ遺跡全体は意外に広く、往

年の街を思わせシュリーマンが想定したロマンに思いを馳せる。

エフェソス:広大な遺跡群 ギリシャとローマの影響を遺跡からもうかがえる。現代の土木技術でもこ

れだけの規模の工事をするのは大変だろう。しかも ほとんど大理石で。

写真①

パムッカレ:綿のような白い石灰棚の連続。しかし、この棚にも今は水がなく、わずかに水をある石灰

棚に足を漬けて歩いた。滑りやすい。(中国の九塞溝と同じ石灰棚)。夕食後は、ホテルの温泉プー

ルに体を漬けた。

カッパドキア:その奇岩は自然の造形だが、まるで人間が造ったような芸術作品、キノコやエリンギ、

えのきだけを連想させる。今も浸食が続いているから、我々の見ている今日の景色も20年後には同

じではないだろう。今もなお新しい奇岩が浸食され生まれつつある。

写真②

 

 

二度目のトルコ旅行 (2023.6.11.~19)その2、山田 稔

前回行った時には、一般家庭が生活している洞窟家屋がいくつもあった。今は世界遺産として政府

が買い取り修復して観光用に。市民は別の所に いわゆるフラットに移ってきている。カッパドキアらし

くなくなった。我々のツアも一般洞窟住居を訪問したが、あくまでも観光用、勿論上下水道、電気な

どライフラインは整備されている。

我々が今回宿泊したカッパドキアのホテルは、元々洞窟をくり抜いた カッパドキアでも伝統あるホ

テルで、有名人も宿泊したことがあるという銘版が掲げられていた。しかし、あまりに立派すぎたホテ

ルで、一般ホテルと変わらず、洞窟ホテルという感じがしない。前回は1泊10$もしなくて、規模は小

さいが、きれいな洞窟ホテルであった。

カッパドキアでは2泊した。ツアグループの一人が、こんなところでゆっくりと何日も過ごしたいなあ と、

感想を漏らしていた。やはりもっとこじんまりした洞窟ホテルでゆっくりするのがお勧めであろう。癒しの

里である。

カッパドキアでは、延々と続く地下都市があるが、今回のツアには含まれていなかった。これがあれ

ばもっと魅力的だったはずだ。

イスタンブール:アヤソフィア(写真③)、

 

ブルーモスク、トプカップ宮殿、地下宮殿(写真④)、

 

グランドバザールなど、歴史的にも、観光客の目を輝かせる見どころが多い。

トルコのレート 前回は、入国時と出国時とでレートが変わるというほど不安定で、お金の数字も末尾

3桁の0数字を消して1.3位を掛けるという感じのレート換算だった(約1000リラ=1.3円)。今回は1

トルコリラが約7.5円、地球の歩き方の2016年版では20円くらいだった。ちなみに、2023年8月21日

では、5.34円である。外貨預金ではトルコの利率が15%というけれど、トルコリラの価値が下がれば、

あっという間に利率どころではなくなり、ただの紙くずになりうる。念のために持って行った 27年前の

かっての通貨は今では通用しない、交換も不可能。(小銭屋では売れるのかな?)

物価は、極端に安くはないが、決して高くはない。でも高くなった。ホテル、レストランでビールを飲ん

でも日本と変わりない。

旅行時期 現地ガイドが言うには、6月11日から出かけたが、この旅行期間より 後1週間もすれば40℃を超えて猛暑になるとか。その直前で、日本の梅雨シーズンからも逃避でき、結果としてちょうどかったのかもしれない。雨もにわか雨が少々くらいであった。

インフラ 高速道 2車線・3車線が整備されているところもある。混んでいない。投資効果があるのかと心配になるところも。水も飲める。どこに行っても清潔感はある。

治安 通常の注意をしていれば、特別治安は悪くはない。市民全体が親日的。日本語を実にうまく話す人は多い。日本語を話せることがビジネスチャンスを増やす道具であるからだろう。

食事 決してまずくはない。しかし、世界の三大料理の一つと言うには首をかしげたくなる。日本料理は、歴史的に世界に知られてこなかったからだろうが、ランクに入っていない。今では日本料理が健康に良く、日本のダシ、醤油文化、発酵料理など認知はされつつあるが。

全体を通しての感想

立派なホテルに泊まり、立派な食事をして、幸いにして、ツアメンバーにも恵まれ、天候にも恵まれて、ラッキーな旅だった。かってない豪華な旅だった。ツアのメンバーも皆感動し、満足していたことでも客観的にはっきりしている。惜しむらくは、カッパドキアの地下都市のウオーキング、ベリーダンスショウを見られなかったことだろう。

しかし、それでも後で考えて何か満たされないモノが頭をよぎる。無駄遣いだったのだろうかとさえ。

それには、初めて行った時の感動より薄れることも要因の一つであろう。

その感動とは何だったのか、やはり自分一人で行くときのワクワクドキドキ感が薄れる。好奇心が満たされない。

独りで行くときは、全てが自分一人の発見であり、出会いであり、自分一人の世界である。

そして、行く先々でいろいろな人に会い、話しをする。現地の人と何気ない会話で新しさを発見し、気付く。旅で出会った、洋の東西を問わずの旅人との会話、情報交換、そして短い時間ながら、人生を語り、生活を語る。

こういう予定されていない不特定の人との会話で、どれだけ自分の心に肥やしを得たことだろう。

どうもそういうチャンスがなかったことが、今一つ満たされないことであり、自分の旅のスタンスとの違いだったような気がする。もう一度エジプトの行きたいとも思うが、もしツアに参加すれば同じことになるかもと思うと、無駄遣いのような気がする。行くとすれば、行ったことがない所に限定すべきだ。

個人旅行とグループツアとを比較すること自体無意味だろう。各個人の価値観があり、旅行スタイ

ルが違い、どうにもならないことであるが、いくつになっても個人旅行、勝手気ままな旅、それが小生

の人生そのものである。全てが自分だけの発見・気づき・驚き、現地の人との何気ない話・コミュニケ

ーション、旅で出会う人とのコミュニケーション、好きなように・好きなだけ過ごす時間、市民の生活

の一部のふれあい、、、。確かに効率は悪いかしれないが、既製品でなく、自分自身の旅があるよう

に思う。

一方、独りで気ままな旅がこれからもできるのだろうか?健康、安全性、経済など考慮して。

かってに比べて異常な円安(2010年にアメリカに行った時は、1$が90円を切った)、それに世界的

物価高、燃油サーチャージも高くなった など、大雑把に言って旅行代金も2倍するのかなと、益々

かっての旅を懐かしく思い出す。

 

終わり

 

 

果てしなき絶景~マティスの旅と作品への反映~その4~6、 山本 雅晴

ホームページのトラブルについて

山本さんの原稿をアップロードしようとホームページにアクセスしたところ、プログラム(Auther Avatars List/Block)の不都合でホームページにアクセスできなかったがリカバリーモードで操作が可能になりました。読者の皆様には2日ほどご迷惑をおかけしました。下記、山本さんの原稿はPDFファイルでご覧ください。

                                      管理人 前田

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マティスはニースに滞在する前にも何度かコート・ダ・ジュールを訪れていた。1917年の12月下旬にニースのホテル・リヴァージュに逗留し、12月31日にニースから15kmほどのカーニュ・シュル・メールに住むルノワールを訪れている。1918~22年は海岸通りのパレ・ド・ラ・メディテラネの部屋を借りて、自分の所有する物品を並べてアトリエとしてモデルを雇って作品を描いた。1923年には旧市街の海岸近くにアパルトマンを借り、アトリエを造り“オダリスク“など多数の作品を描いた。その後も主にニースを拠点にパリのアトリエも利用しつつ作品を創出した。ニースでの出会いと別れについて掻い摘んでピック・アップする。

マティスの旅~その4 マティスの旅その5 マティスの旅その6(ニース-3))

数年後に第2のウクライナにならないか(台湾訪問記)、山本信夫

台湾旅行は、玉山(新高山 にいたかやま 3952m)登山のときと、全土観光と2度訪問している。かって日本の支配地であったが、今ではその経済活動も成長性も日本を追い越している(韓国も同様)。

中国の動きが微妙なので、表題のようなことが起きる前に、台湾に行っておこうということになった。台湾では、今回も、日本、日本人に対して好意的に接してくれているのをよく感じる。我々を案内してくれたガイドにいろいろ質問したが、対中国については出来なかったし、出来ても明確な回答はないだろう。ただ徴兵制は例外なくかなり厳しく、若者の不良化するヒマがないとも言っていた。

道中、昼1回、夜1回の自由食事があったが、料金は日本のほぼ2倍程度以上とられ、逆にいえば日本の弱体化、落ちぶれ化が、身に染みて解った次第。

写真①  九ふん  かって金鉱でにぎわったが

 

 

写真②    十ふん  天燈上げ

 

 

写真③    中正紀念堂

 

 

写真④    故宮博物院 収蔵70万 かって紫禁城にあったもの

 

 

写真⑤    忠列嗣  衛兵交代セレモニー

 

 

果てしなき絶景~マティスの旅と作品への反映~その1~3  山本 雅晴

(私ごとで恐縮ですが、本日、7回目のコロナワクチンを接種しました。管理人 前田)

「果てしなき絶景~マティスの旅」というタイトルで、2023年7月29日にNHK-BS3で放映された。タイトルが魅力的だったので、大いに期待して鑑賞したが内容的には大いに不満だった。マティスの生涯に関する最も信頼できると思われる本:「マティス~知られざる生涯」、ヒラリー・スパーリング著、野中邦子訳、白水社、2012年発行に記述されている内容から主な「マティスの旅」を年代順にピック・アップし、NHK放映番組と対応させてまとめてみることにした。次の本も参考にした。天野知香「もっと知りたいマティス」、東京美術、2016年発行。フランス国内のマティスの旅行先の地図は次回の<その2:コリウール>で表示する。(以下PDFファイルでご覧ください。最後のその3は誤って別の原稿を掲載していましたので差替えました。2023/09/21

マティスの旅2023-9 マティスの旅その2 マティスの旅ーその3