名工大 D38 同窓会

名工大 D38 同窓会のホームページは、卒業後50年目の同窓会を記念して作成しました。

 管理者     
前田・宮口・三山
11月

D38同窓会、サッポロビール浩養園、前田

2023年11月14日(火)に名工大近くのサッポロビール浩養園でD38同窓会が開催されました。昨年に比べ3名の増加で出席者は17名でしたが、昨年の横浜での会合に出席できなかった井上、小林、西村、矢田、平岡さんが出席されました。また、昨年に出席された津田、加藤(真)さんが今回、不参加でした、

次回は同じ場所で開催と皆同意されましたが、時期については11月中と決まった?と解釈していいかどうか、幹事の山田さんに近々纏めて頂きます。時間は、次回は名工大訪問が無いと思うので13時に設定すれば、日帰りできる方が増えると思います。

以下に皆さんから送付された写真をご披露します。山田さん、小林さん、山本信さん、山本雅さんの提供です。これ以外の写真があればご送付ください。

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は、翌朝62年ぶりに名古屋城を訪れた。耐震性の問題で天守閣には登れないが見納めのつもりで城内を散歩した。

 

 

 

 

 

東門からの名古屋城      名古屋城

下記は、早く鶴舞駅に着いたので3人で散歩した鶴舞公園での写真です。最後の写真は大学の構内か?

 

 

 

 

私と鶴舞カントリークラブとの縁 、 前田和男

私も来年で85歳になる。脊椎管狭窄症と言われ腰痛を気にしながらもゴルフは月2回ぐらい続けて来ているが、来年も続けられるか不安を抱えている。しかし先日、フロントで来年もクラブバッグを長期預かりしてくれるか聞いたところ承諾を得たので延長手続きを行った。年間8,000円弱で預かってくれるので、年寄りの身には着換用衣類だけを持ち運びするだけでプレーできるので有り難い。

そもそも私が何故鶴舞カントリークラブと縁ができたのか振り返ってみたい。私がそもそもゴルフクラブを握ったのが、アルジェリアに長期出張しているとき、宿舎の裏に砂漠のような砂地と草が生えた空き地があったことである。ここで誰かがドライバーとアイアン2-3本持ってきていたので、ボールを打っては拾って遊んだことがゴルフに初めて興味を持ったことである。

アルジェリアの長期出張から帰ったのが昭和54年(1979年)、37歳の時である。ちょうどこの時、成田国際カントリーが土曜日にプレーできる平日会員権を50万円で募集していたので購入した。ちょうど会社の先輩の3名がメンバーであることを知ったのでご一緒にプレーさせて貰った。このコースの良いところは成田の滑川駅からクラブバスで5分と便利なところにあった。ただ、コースの幅は狭かった。

一方私が勤めていた東洋エンジニアリングの親会社である三井東圧化学は肥料を製造していた。この肥料の効能を研究するために成田にゴルフ場を経営していた。このゴルフ場が成田空港の計画地にあり立ち退きを迫られ補償金を得て市原の鶴舞に新たなゴルフ場を建設することになった。これが鶴舞カントリークラブである。設計者は当時ゴルフ場設計では評価の高かった井上誠一氏であった。補償金を得たためか、広大な土地に36ホールという当時としては雄大な構想でゴルフ仲間では評価の高いコースであった。これを運営していたのは房総興発という会社で三井東圧、東洋エンジニアリング、大成建設が主要株主であった。

鶴を模したクラブハウス

桜で有名な東コースのショートホール

 平日限定だが株主優待券が何枚かあり、会社の仲間と平日に年休をとり、良く利用させて貰った。朝早くから18ホールを終え、午後からまた、18ホールに挑戦して、受付の女性から“好きね”とよく冷やかせられたことである。

私の友人であり、後輩であるD39の赤木君が本社の契約室にいた。当然、昭和46年(1971年)オープンした鶴舞カントリーの会員権販売の情報に接していた。彼は当然初期募集に応募し80万円の会員権を持っていると聞いた。彼と鶴舞カントリーでプレーしたかったが土曜日のプレー費が結構高かった(鶴舞カントリーは今でも周囲のコースに比べてプレー費が高いが・・・)のでご一緒できなかった。そうこうしているうちにイラクに長期出張となった。イラクでは宿舎の周囲は砂漠であったので、休日はいつもドライバーでボールを打っていた。しかし、ボール拾いは大変であった。毒蛇やサソリに遭遇するからであった。

1年後にイラクから帰国後、狭いコースで気に入らなかった成田国際カントリーの会員権を売り、鶴舞カントリーの会員権を購入することにした。当時、新規会員権の販売計画はなかったので市場で購入するしか方法がなかった。会員2名の推薦が必要ということで赤木君と株主会員だった会社の先輩に推薦を依頼した。その後鶴舞カントリーの支配人同伴のプレーテストということになった。マナー違反がないかどうかの実地テストであった。そしてようやくオープン8年目の鶴舞カントリーの正会員となることができた。額面180万円の会員権を310万円、名義返還料50万円、会員権斡旋手数料約10万円で日曜祝祭日のプレーが出来るようになった。しかし、2年ほどしてまたタイに3年ほど長期出張となったので正会員の味わいが遠のいた。

タイでは本当にゴルフを楽しんだ。タイ南部でプラントの建設が業務だったが、近くにタイ海軍がゴルフ場を運営していた。本来は厚生施設が目的だったのだろうが、友好的なアプローチをしたためか会員並みにプレーを許された。厚生施設なので、スコアカードも手書きの物をコピーした程度の物を使っていた。私は、5万円ぐらいを接待費で奮発して正式なスコアカードを印刷業者に発注して寄贈した。当然、東洋エンジニアリングの名前を印刷することを忘れなかった。自宅に1枚保管してあったがコース所有している「SATTAHIP  NAVY  GOLF  CLUB」より大きな文字していたことには驚いた。下部に小さく印刷した 記憶があったが、実物を見るとTECがコースを所有しているようである。

寄贈したスコアカード、裏はスコア記入欄

日曜日は楽しいゴルフ日が続いた。いつの間にか本社の担当常務の耳にも入ったのか、現場の連中は仕事そっちのけでゴルフをしていると思われお叱りを受けた。現場の最高指揮者はお詫びしたと聞いた。私は、プロジェクトマネージャーであったが3つのJOBを統括するジェネラルマネージャーがお詫びをいれた。ということで3年間の長期出張もアルジェリア、イラクに比べれば、あっという間に過ぎた感がした。

タイから帰国後は、国内業務の子会社に移動となり、赤木君と会社の先輩会員を交えて土曜日に4名で良くプレーすることが出来た。赤木君とは月例会や開場記念杯、新年杯等クラブの正式競技に参加した

赤木君が平成25年(2013年)に70歳程で若くして逝去するまで鶴舞カントリーのクラブライフをエンジョイした。ただ、私が正式に練習場等で指導員の教えを請わなかったことや大学での剣道部の癖でパンチショットを多用して、ゴルフスイングがなっていなかったことが災いしてドライバーの飛距離が200-220ヤード止まりで、ミドルホールでも400-420ヤードある鶴舞のバックティからの競技では勝ち目が無く、入賞することが出来なかった。白色ティで勝負する開場記念杯や新年会等の競技では入選してカップや記念品を頂いた。ハンディキャップも16が最高でBクラスに甘んじた。(注:Aクラスはハンディキャップ13以上)

赤木君が亡くなった後は土曜日プレーが出来る平日会員権を持っている後輩の友人とプレーを続けていたが、昨年から正会員の年会費が約10万円に値上げした機会に脱退を決意した。クラブには約40年強お世話になったことになる。ロッカーを返上したが、今年からゴルフクラブを長期預かりという形でサービスを続けて頂けるのでプレーは続行している。

クラブの月例会の入賞が逸したが開場記念等は結構頂いた。退会時に大部分捨てたが気にいった2点は残してあるのでご紹介します。また、鶴舞カントリークラブで競技した東洋エンジニアリングの関連会社ゴルフ競技で優勝したのでこれも記念に残した。

             

鶴を描いた扇子の飾り物    鶴をイメージしたカップ      優勝杯

 

ただ、鶴舞カントリーの会員権は市場で1千万円まで高騰したことがあるので、贅沢な遊びを続けていると家族からはブーイングが絶えない。私がここまで長生きを出来たのがゴルフという息抜きがあったことが良かったのではと言い訳を続けている。

2023/11/11記

信州・紅葉をめでる旅:< 軽井沢 、小諸、別所温泉> 、 山本 雅晴

10月29日から11月2日に軽井沢・小諸・別所温泉に紅葉を求めて散策した。幸い好天に恵まれ紅葉も見頃であった。軽井沢などは外国人を含め大賑わいだった。1日目は旧軽井沢、2日目は小諸、3日目は中軽井沢。

(注:以下はPDFファイルでご覧ください。 管理人)

軽井沢・紅葉の旅2023-10 軽井沢その2・美術館 軽井沢紅葉の旅3~小諸 紅葉旅その4別所温泉

 

加藤元久君の「駒ヶ岳メモ」を読んで。 鈴木直久

彼が折にふれて詳細なメモを作成することは、かねてから承知していた。

それでも今回読ませていただいた「駒ヶ岳メモ」には本当に驚いた。何しろ61年前の名工大時代の記録なのである。しかもぼくは一緒に木曽駒ケ岳に登った三人のうちの一人である。

だからぼくにとっても非常に懐かしい思い出である。

その登山について、若干の補足説明と感想をまとめておくことにしたい。

1962年7月23日の夜、分校の近くだった思う羽田君の下宿を加藤君と一緒に訪れた。羽田君とは特別親しくしていなかったから、前川研の卒論仲間だった加藤君からその登山計画を知ったのだろうと思う。

ぼくは3000m級の高山に登ったことがなかったから体力に懸念があった。「鈴木君も行く決心がつく」と書かれているのはそのためだったのだろうと思う。

7月25日

中央線大曾根駅発の始発に乗車し、9:19上松駅で下車した。快晴だった。路線バスで二合目の登山口に行き、登山を開始した。

夕方加藤君が足に痙攣を起こしたので、登るペースが落ちた。

登山路と谷を隔てて向かい側の三ノ沢岳(2846m)に湧き上がってくる雲が壮観だった。

19:30 玉の窪小屋(現在の玉乃窪山荘だと思われる)着と記録されているように、日入時刻をやや過ぎていた。

7月26日

快晴。玉の窪小屋は駒ケ岳頂上の直下にあるから、難なく山頂に登ってご来光を拝むことができた。頂上から眺望できる高山は全て見えたはずであるが、山の知識のなかったぼくが確認できたのは富士山だけだった。それでも十分満足した。

濃ヶ池に向かう途中で「唯一の黒ユリを見つける」と記録されているが、その黒ユリをぼくも一緒に見た。

濃ヶ池行きを断念して引き返し宝剣岳に登った。その頂上で一人の男が逆立ちをしたので、度肝を抜かれた。

「18時頃宮田小屋着」と記録されているのは現在の宝剣山荘のことだろうと思う。

7月27日

福島側登山口に下り、偶々通りがかったトラックに福島駅まで同乗させてもらったと記憶する。

両君とは福島駅で別れて、翌日、二年前に死去した父の新潟県妙高市の故郷を訪れた。

なお、その二か月半後に、山本雅晴君と加藤君と三人で上高地を訪れたのも懐かしい思い出である。

羽田君にはその後会っていないが、三菱江戸川化学(現在の三菱ガス化学)に入社したと聞いたことがあるような気がする。一年後輩の卒業生が知っているだろうと思う。

以上