名工大 D38 同窓会

名工大 D38 同窓会のホームページは、卒業後50年目の同窓会を記念して作成しました。

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前田・宮口・三山

ギムレットの思い出、鈴木直久、2019年9月29日

9月28日付朝日新聞土曜版のコラム「作家の口福」に、真山 仁が「ギムレットには早すぎる」という短文を書いている。「高校時代にレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』に夢中になった影響で、大人になったら、絶対に飲むぞと心に決めていたカクテルがある。ギムレットだ。」と書き始められている。

彼のことはこの文章以外知らないが、ギムレットは懐かしいので、そのささやかな思い出を書いてみたい。

 

ギムレットは、レイモンド・チャンドラーが、その代表作『長いお別れ(The Long Goodbye 1953年)』に登場させて有名になったカクテルである。ベースは、ジン、ライムジュースおよびシロップ。

 

その小説はロサンジェルスに住む私立探偵フィリップ・マーロウを主人公とするハードボイルドで、登場するテリー・レノックスがこのカクテルを好み、二人が一緒に酒を飲むときには必ずこれも飲んでいた。ところがテリーはある殺人事件に巻き込まれた挙句に自殺してしまう。

しかし、実際には生きており、マーロウが懐かしいテリーは、ほとぼりが冷めたころ密かに会いにきた。そのときにテリーが発するセリフが、「ギムレットには早すぎるね(I suppose it’s a bit too early for a gimlet,” he said)」(清水俊二訳)で、名セリフとして有名になった。

 

セリフの表向きの意味は、会ったのが昼間だったから、酒を飲むには早すぎる、ということだが、ギムレットは以前の二人の親密な付き合いを象徴しているから、以前のような親密な間柄に戻りたいというのがテリーの真意だった。しかし、事件の経緯に疑問を感じていたマーロウは誘いを断り二人は別れた。それが結末である。

 

ところで小説の舞台がカクテルの本場である米国の、西海岸の南部であるにもかかわらず、英国生まれのギムレットが用いられたのは、単に意外性を狙ったわけではなく、レノックスも、作者のチャンドラーも英国出身だからだと思う。

 

また、書名の“The Long Goodbye”であるが、作者は”Goodbye”を、また会うことを前提にした言葉として用いており、それが”Long”であり、しかも定冠詞”The”が付けられているから、上記二人の再会までの期間が長かったことを意味していると思う。

 

1976年に発行された清水俊二訳の早川ミステリ文庫で初めてこの小説を読んだ。

そして2年後に偶々出張したウィスコンシン州の郡部のレストランで昼食をしたとき、メニューにギムレットがあったので飲んでみた。しかし、特別に感激せず、それを有名にしたのは、専らその名セリフだったのだろうと思った。

真山さんはギムレットを飲み続けたが、わたしはその一回だけである。日本酒を好むわたしはカクテルに親しまず、偶に機会があると、同じジンベースでもマティーニを飲むことにしている。

 

後日譚

 

その後20年を経て1996年ボストンに出張したとき、MITのキャンパスを見物したが、そこの売店にこの小説のペーパーバックがあったので買って、帰国後清水俊二訳を参考にしながら読了した。

 

この小説は村上春樹の若いときからの愛読書で、彼も翻訳して、2007年に同じ早川書房から『ロング・グッドバイ』という書名で出版されたので、やはり買って読んだ。例のセリフは、「ギムレットを飲むには少し早すぎるね」(下線は筆者)と訳されている。

映画の字幕の吹き替えが本業だった清水より丁寧に翻訳しているように感じられたが、清水の訳は古いとはいえ日本語としてのテンポとリズムがよく、両者の翻訳には読者の好みが分かれるようである。

 

「ピカソとの日々」回想記を読んで、鈴木 直久

フランソワーズ・ジローおよびカールトン・レイク著野中邦子訳「ピカソとの日々」白水社(2019年4月1日発行)

 

今春山本雅晴さんの「南フランス旅行記」を読んで、マティスについて若干の質問をしたところ、彼からヒラリー・スパーリング著野中邦子訳「マティス 知られざる生涯」(白水社)を紹介されたので、県立図書館から借りて読んだ。それはマティス評伝の決定版とされている大著である。読んだおかげで疑問が解消したばかりでなく、マティスの生涯について詳しく知るとともに彼の作品の理解を深めることができた。

また同書のなかに晩年のマティスがピカソと親しく交流したことが紹介されているが、その交流には、当時ピカソと一緒に生活していたフランソワーズ・ジローという女性が積極的に関わっていたことを知って彼女に関心を持った。

 

彼女は1964年にLife with Picassoという回想記を出版してベストセラーになった。それが本書である。彼女が記憶に基づいて語ったことを作家のカールトン・レイクが聞き取ってまとめたものである。

邦訳は瀬木慎一訳「ピカソとの生活」として翌1965年に新潮社から刊行された。

ところが、今年の4月にその新訳が野中邦子訳「ピカソとの日々」として白水社から刊行されたのである。訳者は「マティス 知られざる生涯」と同じである。それを知ってにわかに関心が強まったので、やはり県立図書館から借りて読んだ。

 

なお6月15日の朝日新聞読書欄で本書が取り上げられて横尾忠則が書評を書いているので、読まれた方もおられるだろうと思う。

 

前置きが長くなって申し訳ありませんでした。

ただ一美術術愛好者としては読んでとにかく大変面白かったし、何分にもピカソがテーマだから、そうでない方にも興味深い内容だと思うので、紹介させていただくことにする。

 

ジローは1943年にピカソ(61歳)に初めて会ったとき21歳で、ソルボンヌ大学で法律を専攻していながら、画家になる決心をしたときだった。彼女はピカソと急速に親密になり、1946年に同居を始めたが、1953年に彼女の方から別れた。完全に別れたのは1955年である。

ピカソの一生は女性遍歴の一生でもあったが、約10年間も一緒に暮らしたのは彼女だけである。またピカソの子供四人のうち二人を生んだ。

 

本書の魅力は何であろうか。

先ず第一に、何といっても、この20世紀最大の美術家の日常の、生身の姿を、大胆、率直かつ詳細に示したことである。本書は彼の崇拝者たちにとってはスキャンダラスで腹立たしい内容だったようで、批判の猛攻撃を受けた。しかし、本書を読むと、彼女は一緒に暮らしたことを一貫して感謝しており、単なる批判、まして敵意は微塵も感じられず、事実を正確に伝えているだけである。数多くのエピソードが紹介されているから、読むとピカソの人物像が生き生きと浮かび上がってくる。

 

その人物像を一言で表せば、利己主義という使い古された言葉がぴったり当てはまる男だった。例えば、ピカソが結婚前にバルセロナに行って、最初の妻となるオルガを母親に紹介したときに、母親は言った。「かわいそうに、あんたは自分の行く末がわかっていないんだね。私があんたの友達なら、なにがなんでもやめておけというだろうに。うちの息子といっしょになって幸せになれる女なんかいない。この子は自分のためなら何でもするけど、他人のためには何もしないよ」(137ページ)。

 

第二に、ピカソの作品の制作過程が具体的に紹介されていることである。

彼は寡黙に制作するタイプの芸術家ではなかったから、制作しながら作品の意図、過程などをジローに詳しく語った。あの天才が語った内容を正確に記憶して再現した彼女の能力には、ただただ驚き、感嘆するほかない。

一例として、初めてジローを描いたときの状況を紹介してみよう。

低い台の上でジローにポーズをとらせると、大判のスケッチブックを手にとり、頭部のスケッチを3枚描いたが、「だめだな、うまくいかない」といって破り捨てた。次の日は「ヌードのほうがよさそうだ」といった。服を脱ぐと、両手を体の脇に下し、ほぼ直立状態に立たせた。ピカソは、三、四メートル離れたところから観察するようにじっと見ていた。一秒たりとも目を離さず、スケッチブックに触れようともしなかった。鉛筆さえ持たなかった。それはとても長い時間に思えた。ようやく彼は口を開いた。「どうすればいいかわかった。もう服を着ていいよ」。服を着たとき、ジローは一時間あまり立っていたことに気づいた。翌日、ピカソは記憶を頼りに、立っている彼女を描いたスケッチの連作に取りかかった。そのほかにも彼女を描いた十一点からなるリトグラフのシリーズも制作した。そのどれにも、左眼の下に小さなほくろが添えられ、右の眉は山形のアクサン記号のように描かれた。

 

同じ日、油彩で彼女の肖像を描いた。その絵はのちに「花の女」(1946年)と呼ばれるようになった。その完成までの過程が3ページにわたって詳しく紹介されている(107-109ページ)。完成日は示されていないが、少なくとも翌月までを要した。

 

第三に、ピカソのもとに訪れた、あるいは一緒に訪ねた多くの画家、彫刻家、ブロンズ鋳造職人、陶芸家、詩人、作家、画商、蒐集家、哲学者、政治家たちに、彼女も一緒に会って同席した。だから彼らに対するピカソの言動と評価が語られている。

例えば、この一文の最初に言及したマティスとの交流については、「ともに暮らしていたあいだ、ピカソが交流を持ち、訪ねて行ったすべての芸術家のうち、彼にとってマティスほど重要な人は他にいなかった」と語られている(233ページ)。

またジロー自身も初めてピカソのアトリエを訪れたときのことを、「最も目を引いたのは、マティスの輝くばかりの油彩画だった」、「私は思わず「まあ、なんて美しいマティスかしら!」などと言っており、当初からマティスを敬愛していたことが分かる(15ページ)。

 

ピカソはジローとの同居中も不倫と女遊びが止まなかったが、彼と特別に親密だった彼女以外の4人の女性、すなわち最初の妻オルガと息子パウロ、マリー・テレーズと娘マヤ、「泣く女」のモデルとして名高いドラ・マールおよびジローの後釜に座った二人目の妻ジャクリーヌ・ロックとの接触についても具体的に語られている。

 

ピカソは、秘書のサバルテス、メイドのイネスおよび運転手のマルセルの三人を雇っていた。いずれも大変な薄給だった。彼らの存在は本書の出版のおかげで人々の記憶に残っているのかもしれない。マルセルは25年間勤めた挙句あっさり解雇された。彼は次の言葉を残している。

「これまでさんざんつくしてきたのに、くびだって?」「いつかみんなに見放される日が来ると警告しておきますよ。あんたがそんなに薄情なら、フランソワーズ(ジローのこと)だって、いつかあんたを捨てる日が来るでしょうよ」

 

このように本書はピカソとの生活について語っているのであるが、読んでいると、語っているジロー本人にも感嘆させられる。彼女は大柄で個性的な顔立ちの、凄みを感じさせる美人であった(本書に写真があるしネットで見ることもできる)が、ピカソが魅せられたのはその美貌ではなく、類まれな高い知性であったことが分かる。ピカソ自身も実に鋭い知性を持っていた。またジローは、特に記憶力については、「「完全な記憶力」という大げさな言葉が文字どおり存在するのを目の当たりにして感銘を受けた」と共著者のレイクが、本書のはしがきに書いているほどである。そのうえ彼女は法律を捨てて画家になることを決心したくらいだから、美術についての幅広い知識を持ち、またピカソの制作助手を務めるだけの技能と絵画センスを持っていた。ピカソにとって、打てば響くように頭の回転が速い彼女は飽きることのない存在だったと思う。

 

彼女は若かったから、ピカソに全身全霊を傾けて生きたが、出会いから10年を過ぎて、子供たちが生活の大きな部分を占めるようになり、また70歳を過ぎたピカソとの年齢差を感じるようになった。一方ピカソは、ジローが苦心して築いた家庭という檻に囲い込まれたと感じるようになった。

彼女はピカソと同居するまで一緒に暮らした、彼女が敬愛する祖母の死にピカソが冷淡だったことをきっかけに、別れることを決意した。ピカソは同意しなかったが、断固として別れた。一読者としては、10年間もよくもったものだと思う。

その別れかたによって、彼女は「ピカソを振ったただ一人の女性」としても知られることになった。

一方、女の方が去ることなど夢想だにしなかったピカソは激怒し、彼の影響力を駆使してその後のジローの活動を妨害した。例えば、画商のカーンワイラーは、彼女の絵画も取り扱っていたが、契約を解消した。本書の出版にあたっては、ピカソが差し止め訴訟を起こした。ただし敗訴に終わった。

 

最後に、ピカソと別れたのちの彼女について簡単に記しておきたい。

旧知の若い画家リュック・シモンと結婚して一児をもうけたが、ピカソから復縁して結婚することを提案され(最初の妻オルガは1955年に病死していた)、子供たちのことを考えて離婚話を進めたが、ピカソは彼女の後釜にすわったジャクリーヌと秘密裡に再婚してしまった。

ジローは子供たちの認知裁判をおこして勝訴したので、二人の子供たちはピカソ姓を名乗る権利を獲得し、またピカソの死後遺産の10%ずつを相続することができた(マリー・テレーズが生んだ二人目の子供マヤは認知を得られなかった)。

彼女自身も画家として成功し、小児麻痺のワクチン開発で有名なジョナス・ソーク博士と再婚し、アメリカに移住した。

2010年に日本でも回顧展を開き、2019年現在なお健在であり、あと二年で百歳を迎える。

 

 

サマセット・モーム、  鈴木直久

このような短文、小文、エッセー等は大歓迎です。(管理人)

今春のある日、市立図書館で英文学の文庫本の棚を何気なく眺めていたら、「モームの謎」という岩波現代文庫が目に入った。モームという名前が懐かしかったので借りて読んだ。

著者は行方昭夫東大名誉教授で、今世紀に入ってから岩波文庫にモームの代表作の新訳を多く入れてきたモームの専門家であることを知った。

モームが懐かしいのは、「人間の絆」、「月と六ペンス」、「お菓子とビール」などの長篇、「雨」などの短篇および回想録「要約すると(Summing Up)」を1970年代に新潮文庫で、そして1990年代にちくま文庫に入った何点かを読んだからである。

そこでこの機会に、以前に読んだ数作品を再読するとともに新たに数作品を読んでみた。それらの他に短篇40数作品を読んだ。

やはりモームは面白い。プロット(筋)が巧みに構成されており、文章は平易で読み易いから、読者はページを早くめくりたくなる。そのうえ特に得意とする短篇の多くにはアッと驚くようなオチ(落ち)がある。
だから諸兄のうちの多くの方がモームを読んだことと思うが、そうでない方には、先ず「雨」、「赤毛」および「手紙」の3つの短篇を読んでみられるようお勧めしたい。一日以内で読めるからである。

1940年(ぼくが生れた年)に、日本に初めて紹介されたのは中野好夫訳雨:他二篇(岩波文庫)によってであるが、他の二篇は「手紙」と「赤毛」であった。100篇を越える多くの短篇からこれら3篇を選んだ氏の慧眼に感嘆する。

ひばり(雲雀)について、 鈴木直久

 昨日初めて雲雀を見ました。40年近く折にふれて野鳥を観察してきましたが、「声はすれでも姿は見えず」でしたから大変うれしく思いました。

 皆さんは雲雀を見たことがありますか。

 

 京阪電車橋本駅(八幡市)で下車して、旧京街道(備考1)を枚方市(大阪府)に向って歩いていたときのことです。府境を越えると楠葉台場史跡公園(備考2)の中を通りますが、そこの低木の頂に止まって囀っていたのです。

 

 公園の面積は約1万坪ありますが、2016年秋に開園したばかりで、まだ一面の草原に過ぎませんから、子供の日なのに家族連れもいなくて静かでした。だから安心して止まっていたのでしょう。

 

 「声はすれでも姿は見えず」にはもう一つ思い出があります。やはり数年前の5月に、保津峡を嵐山に向って歩いていたら、美しい鳴き声が聞こえ、鉄橋の上で何人もの男たちが望遠レンズを同じ方向に向けていました。尋ねるとオオルリの姿を待っているのでした。朝から一度も姿を見ていないとのことでしたから、マニアの執念は大変なものです。

 

 なお、これまでに観察した野鳥は70数種類です。

 

備考1 京街道

 徳川幕府は大名行列が京を通ることを嫌い、東海道の大津の追分から大阪までに新しい街道を整備しました。それが京街道です。その間に、伏見、淀、枚方および守口の四宿を設けましたから、東海道五十七次とも呼ばれました。

 

備考2 楠葉台場跡

 徳川幕府は1865年現在の枚方市の楠葉に台場(砲台)を築きました。それが楠葉台場です。

 

20195.6日 鈴木直久記)

 

米の炊き方、選び方およびご飯の保存法-----鈴木直久

何の話かとびっくりされそうですが、39日(土)たまたまテレビの「NHK たすけて!きわめびと」という番組を見ていたらこのテーマが取り上げられました。

「きわめびと」は京都の米穀店の三代目の美人の女性で、五ツ星米マイスターの称号を持つ女性でした。

 

その説明は大変理に適っていて感心したので、早速試してみたら素晴らしい炊きあがりで「目からうろこ」でした。「ご飯が立っている」ことを実感したのです。

 

その番組を見た方やそのような方法を前から行っているお宅があるかもしれませんし、わが家はそんなことを知らなかったのかと思われては恥ずかしいのでずいぶん逡巡したのですが、一人にでもお役に立つことができれば、もって瞑すべしと考えてご紹介することにしました。

 

番組の内容は「NHK たすけて!きわめびと」を検索すれば見ることができます。

なお、画面をコピーすることができなかったので要点を手入力しました。それを添付してご参考に供します。

 

添付資料

 

NHK たすけて!きわめびと                 201939日(土)

 

お米のおいしさ再発見!炊き方・選び方・保存法

 

五ツ星米マイスター 渋谷梨絵

 

<ご飯の炊き方>

 

・計量は“トントン”

 

1) 計量カップにあふれるくらい、お米を入れる。

25回ほど、トントンとカップを下に打ちつける。こうすることで、計量カップのなかの空気が抜けて、お米が隙間なく下につまる。

3)最後に、カップからはみ出たお米をすり切る。

 

・とぐではなく、洗う

 

1)水に入ったお米をやさしくかき廻す。

2)両手でお米を包み、優しく拝み洗いする。

3)水を替えながら3回繰り返す。

 

 これだけで、米ぬかを十分落とせる。

 

・氷を入れて2時間浸水

 

 とっておきの極意。お米は、冷たい状態で、およそ2時間近く(80分以上)浸水させると、吸水率が高くなる。吸水率が高いと、お米の芯まで水が浸透し、デンプンを分解する酵素が働いて、甘味がアップする。

 

 炊き方は、水を入れる前に、米一合につき、氷を1個入れるだけ。

 氷を入れた状態で、水の量を量り、お米の分量に合わせた目盛に合わせる。

 

 炊き上がったら、しゃもじで十字に切ってひっくり返す。

 

<お米選びは甘味と粘り!>

 

この指標で食べ較べれば、自分の好みに合った品種を選びやすい。

 

(代表的なコメの品種16種類が甘さと粘りを指標としてチャート化してある。例えば、「ミルキークイーン」は、甘味、粘り共に非常に強い。「こしひかり」は甘味、粘り共に強い。「ゆめぴりか」は、甘味がやや弱く、粘りが強い。

「ななつぼし」は、甘味がやや弱く、粘りがやや強い。「あきたこまち」は、甘味、粘り共にやや弱い。「ささにしき」は、甘味、粘り共に非常に弱い。

 

渋谷さんは上記よりも多くの米を食べて判別できるそうだ。

 

<冷凍するなら“なる早”で>

 

 ごはんを保存するには冷凍庫がおすすめ。

 

冷凍方法

 

1)食後ではなく、炊きたてのごはんを、直ぐに冷凍することがポイント。

2)1膳分(120グラム~150グラムぐらい)を、ラップに薄く広げて包む。

3)厚さは1センチほど。ぎゅっと押さずに、ふんわりと、包む。

  ラップの上から、さらにアルミホイルで包むと、よりおいしくなるという)

 

解凍方法

 

 ポイントは、2回に分けて解凍すること。

 

1)電子レンジの温め機能(700ワットほど)で、凍ったままのごはんを23分間解凍。

2)それを出して、一度茶碗に入れて、ほぐす。このことで、余分な水分がとぶ。

3)もう一度、さきほどのラップをかけて、茶碗を電子レンジに入れ、温め機能で、23分間温める。

 

以上

スペイン・インフルエンザについて、   鈴木直久

 今冬もインフルエンザが流行していますが、図書2月号(岩波書店)に、「大流行による惨劇から一〇〇年―スペイン・インフルエンザ」と題して、田代眞人氏(国立感染症研究所インフルエンザウイルス研究センター長)が、4ページの興味深い文章を寄稿しておられるので、その一部を抜粋してご参考に供したいと思います。

 

「二〇一八年はインフルエンザ流行史で最悪のスペイン・インフルエンザ(日本ではスペインかぜと呼ばれる)から一〇〇年にあたり、世界各地でさまざまな講演会や出版が行われた。いずれもが、一〇〇年前の災厄が忘れ去られている現状を憂慮し、その教訓を生かして、いつか必ず起こる人類存亡のインフルエンザ危機に備えて、地球全体で準備・対応することの必要性を警告している。」

 

「一九一八-一九年のスペイン・インフルエンザの世界大流行(パンデミック)では、当時の世界人口約二〇億人の三分の一が感染発症し、二千万-五千万人が死亡したと推計されている(中国、アフリカなどを含めると一億人との推定もある)。」

 

「一九一八年初春に米国カンザス州の新兵訓練所で、季節遅れのインフルエンザ流行により多数の兵士が入院した。その後、各地へ拡大したが、症状や致死率は通常の季節性インフルエンザと大差なく、特に注目されなかった。

 第一次世界大戦に途中参加した米国は一八年春から多数の兵士を欧州に派遣したが、それに伴ってインフルエンザは欧州へ、さらに世界各地に広がった。しかし、一般に健康被害は軽く、パンデミックの先ぶれである第一波の流行は8月までに終息した。

 ところが9月、インフルエンザが再出現した。この第二波は激烈で、三ヶ月のうちに欧州から全世界へと拡大し、壊滅的な大流行を起こした。生存者の多くも二次性の細菌性肺炎で死亡した。原因も予防・治療法も不明であった。犠牲者の多くが青壮年だった。

 膠着状態に陥った世界大戦の最終局面で両陣営の戦力は激減し、パリに迫る西部戦線では、ロシア戦線から戦力を転用したドイツ軍の最終突撃は中止された。それがドイツ降伏(一九一八年一一月)の原因ともいわれる。

 休戦後の一九一九年にも第三波が追い打ちをかけ、流行規模は減少したが死亡数はさらに増加した。」

 

「スペイン・インフルエンザ流行当時、山内保ら三人の日本人研究者が、スペイン・インフルエンザの病原体は細菌ではなく、ウイルスであることを証明し、英国の医学雑誌”Lancet”に発表していた。被検者への感染実験など、現在では問題のある研究方法もあり、長く無視されていたが、最近、世界的に再評価されつつある。」

 

「現在、H5H7型の鳥インフルエンザウイルスがヒトでも大きな健康被害を起こし、パンデミックの出現が懸念されている。

研究のほとんどの局面で世界を牽引指導してきた世界的インフルエンザ研究者RG・ウェブスター博士は、これまでの知見に基づき、スペイン・インフルエンザを超える最悪のパンデミックの発生は時間の問題であるとして、これに対して十分に事前準備することの必要性を説いている。」

 

「日本でも一九一八-二〇年(大正七-九年)に、スペイン・インフルエンザによる甚大な健康被害(当時の内地の人口五五〇〇万人のうち四五万人が死亡)と、市民生活・社会機能に大きな影響が生じたが、その実態が解明されぬまま記憶が薄れている。

 大正デモクラシーの楽観的な社会の雰囲気と、逆に昭和前期の軍事優先の流れによって、国民の士気を削ぐような健康被害と社会的影響は過小評価され、意図的に隠された。さらに、映像に残る関東大震災の強烈な記憶の蔭で、その五倍もの死者を出したスペイン・インフルエンザの記憶は忘れ去られた。」

 

「しかし、日本でのスペイン・インフルエンザの実態を解明した名著がある(速水融「日本を襲ったスペイン・インフルエンザ―人類とウイルスの第一次世界戦争」2006年、藤原書店)。(鈴木注:速水融(1929-);経済学者。文化勲章受章者。日本に歴史人口学を導入したことで知られる。)

 それは、統計資料の再検討と当時の新聞記事などから被害の実態と人びとの対応を丁寧に説明する歴史人類学の手法により、大きく欠落していた日本でのスペイン・インフルエンザの実態を解明した。

 速水先生は、日本が、スペイン・インフルエンザからほとんど何も学んでこなかったことを教訓として、今後必ず起こるパンデミックの災厄を「減災」するための事前準備と緊急対応の必要性を強調している。」    

 

                                      以上

(2019/02/01     鈴木直久 記)

 

 

藤田嗣治の戦争画   鈴木直久

  127日に京都国立近代美術館で、「没後50年藤田嗣治展」を見た。2006年の生誕120年展も同じ場所で見た。また彼の作品は国内の多くの美術館に所蔵されているので機会を捉えては見てきた。今回は生きている間見る最後の展覧会になるだろうから、丁寧に見て作品の魅力を確認するよう努めた。

「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節全うする」という戦争画が今回も含まれていて、それらの悲惨な場面の克明な描写はやはり強烈だった。前回の展覧会ではそれらを含む四点が展示された。

 そして藤田はどのような意図と姿勢でそれらの戦争画を描いたのだろうかと気になったので、少し調べてみた。

周知のように、太平洋戦争中に陸海軍の委嘱により、多くの画家たちによって戦争画(公式には作戦記録画)が多く描かれた。戦意高揚のためのプロパガンダに利用することが目的だった。敗戦によりその多くがGHQによって接収されたが、153点が無期限貸与という異例の形式で返還され、東京国立近代美術館(MOMAT)に保管されている。

 

藤田の作品は次の14点である。それらの一部は、時に応じてMOMATで公開されたが、彼の全所蔵作品展示(2015919日‐1213日)のなかで、おそらく初めて一括して公開された。それらはブログArt & Bell of Toraにカラー写真付きで紹介されている。また本年8月に発行された清水敏男著藤田嗣治作品集には8点が紹介されている。

○印の5点(ただし、「血戦ガダルカナル」は京都展には出展されなかった)が前回(2006年)の、そして「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節を全うす」の2点は今回の展覧会にも出展された。

 

1     南昌飛行場の焼打 1938-39

戦闘の場面を描いた最初の作品。

2 武漢進撃 1938-40

3 哈爾哈(はるは)河畔之戦闘 1941

これはノモンハン事件の画であり、藤田が戦争画にのめりこむきっかけとなった有名な作品であるという。

4.十二月八日の真珠湾 1942

⑤ シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)  1942

6 ソロモン海域に於ける米兵の末路 1943

⑦ アッツ島玉砕 1943

「全滅」に対して「玉砕」という美化した言葉が使われたのは、この時が最初だという。

8 ○○部隊の死闘ニューギニア戦線 1943 

玉砕した山田部隊の戦闘を描いたこの絵は、検閲のため「○○部隊」に名前を変えられた。

⑨ 血戦ガダルカナル 1944

⑩ 神兵の救出到る  1944

11 ブキテマの夜戦 1944

12 大垣部隊の奮戦 1944

13 薫(かおる)空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す 1945

  台湾の原住民(当時は高砂族と呼ばれた)が日本兵(高砂兵)となっていたことでも有名であるという。

⑭ サイパン島同胞臣節を全うす 1945

  民間人の犠牲を描いた最後の戦争画である。

 

「アッツ島玉砕」は大画面(193.5×259.5㎝)による彼の群像表現の到達点であり、またMOMATが所蔵する戦争画153点中の最高傑作であるとされている。藤田自身が「会心の作だった」と述懐している。それを少なくとも3回見たと記憶するが、その迫力と凄惨さを忘れることができない。

「サイパン島同胞臣節を全うす」は、民間人の死者だけでも1万人近くだったと推測されている、あまりにも有名な玉砕の場面を描いている。天皇夫妻は終戦60年(20156月)年にこの場所を訪れて慰霊されたが、それ以前にこの絵をご覧になったにちがいないと思う。しかし、その画題には違和感を強く覚えられたことだろう。

 

ところで、藤田はどのような意図で戦争画を描いたのであろうか。自身はそれについて詳しく説明していないようである。昭和13年(1938年)にいち早く嘱託として海軍に採用されて「南昌飛行場の焼討」を描いて以来、陸軍と海軍の要請を受けて戦争画を描き続けたのだから、戦争のプロパガンダに利用するという軍の意図に積極的に応える活動だったされても仕方がないだろう。最後のサイパン島の悲劇の画題にさえそれは表れている。

描いた戦争画の数は150点に上るという研究もあるそうだから、文字通りのめり込んだのだった。戦況が次第に不利になるにつれて日本軍が殺戮される戦いが、したがってそれが描かれた作品も増したから、目的とする戦意高揚効果には繋がらなくなったと思う。しかし、彼は悲惨な局面を執拗に描き続けた。何故だろうか。革新的な表現を求め続けてきた彼の芸術家精神が、戦争画という新しいジャンルで究極の表現を目指したからではなかったろうか。軍に協力したとはいえ、真の意図は歴史画としての戦争画の実現を目指したのだと思う。そしてそれは十分に達成されている。

「藤田嗣治作品集」(2018年)の著者清水敏男は同書で、「「アッツ島玉砕」や「「サイパン島同胞臣節を全うす」は、ダイナミックな絵画表現によって悲惨な戦争による人間の生死を画き出すことに成功し、単なる記録画の域を超えたものとなった」と書いている。

 しかし、戦争画の作成に参加した高名な画家は多数に上ったにもかかわらず、戦後になると、おそらく最も華々しく活動した彼に非難が集中し、スケープゴートにされてしまった。彼は芸術家としてそれを受容することができなかった。それは仕方がないとしても、あの戦争で多大の犠牲を払った多くの同胞の心情を十分に理解したとは言えないだろうと思う。

そのような状況に疲れた彼は、1949年(昭和24年)に日本を脱出してフランスに戻り、そこに帰化して二度と日本の土を踏まなかった。

 

なお、藤田以外の戦争画の傑作は他にも多くある。小磯良平の「娘子関を征く」(1941)、宮本三郎の「山下、パーシバル両司令官会見図」(1942)および向井潤吉のGHQに接収されなかった作品「影(中国・蘇州上空にて)」(1938)(福富太郎コレクション)などが記憶に残る。                                 

以上                                2018.12.15   鈴木直久記

ガルッピ(1706-1785)のソナタハ長調、鈴木 直久

彼は、スカルラッティ、バッハおよびヘンデルなどと同時代のヴェネチアの作曲家です。オペラ・ブッファで著名だそうですが、今回ご紹介するソナタとプレスト変ロ長調という小曲2曲しか知りません。

10年以上前に買った、ミケランジェリの演奏を収めたCD10枚入りボックスの中に入っていたので知ったのです。それをふと思い出したので、数日前に久しぶりに聴いてみたら、やはり非常に魅力的です。穏やかかつ美しい旋律の曲であり、聴くと気分が休まります。それに短いので毎日繰り返し聴いています。

この曲を知らなかった人は是非一度聴いてみられるようお勧めします。YouTubeで聴くことができます。演奏者はやはりミケランジェリがよいでしょう。

びわ湖ホールのN響公演、鈴木直久

824日、びわ湖ホールでN響公演を久しぶりに聴いた。

 N響の演奏を普段はEテレで視聴しているが、今回の公演のプログラムに魅力を感じて、早めに舞台正面の1F席を確保しておいた。

プログラムは、ニコライの歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番およびベートーヴェンの交響曲第5番「運命」である。いずれの曲も生演奏を聴くのは初めてだった。

 指揮者は下野竜也そしてピアノ演奏はフランス人女性リーズ・ドゥ・ラ・サールだった。彼らの演奏を聴いたのも今回が初めてである。

 「ウィンザーの陽気な女房たち」の序曲はどうということもなかった。期待したのはラフマニノフとベートーヴェンである。その2曲の演奏は期待に十分に応えてくれた。

 

 ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番は、周知のように、彼が作曲した4曲のピアノ協奏曲のうちで最も人気が高い。その旋律は伴奏音楽として映画、テレビドラマやフィギュアスケートなどでしばしば利用されてきた。

 さて、今回の演奏についてである。リーズ・ドゥ・ラ・サールはN響の響きに負けないで、この難曲を堂々と弾き切った(と思う)。身体を大きく動かさなかったから、楽々と弾いたように見えた。まだ満30歳であるとはいえ、妖精のような顔立ちで脚長の女性が、男性に負けない強靭な音を出せることが不思議だった。

 その彼女をN響が熱演でサポートしたから、理想的な協奏曲の演奏になったと思う。それは下野竜也の指揮のお蔭でもあろう。正統的な棒捌きの指揮者であり、リズム感が優れ、ダイナミックな表現に秀でていると感じた。

 この日に先立って、アシュケナージがピアノを弾き、ハイティンクがアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮する手持ちのCDを聴いておいたが、重厚な響きを持つこの曲の真価を味わうためには、今回のよう生演奏でなければならないと痛感した。

 そして次の「運命」の演奏への期待が一層高まった。

 

 ぼくのような音楽鑑賞の初心者にとって、「運命」の演奏には2つの重要な着眼点がある。第一のそれは、第1楽章の冒頭の有名な三蓮音の長さと全体のテンポである。その三蓮音はやや短めであり、テンポは早めだった。それが現代の標準的な演奏スタイルなのだろう。最初の三蓮音は、ややぎこちなく開始されたようだが、直ぐに立ち直り自然な流れになって進行した。第二の着眼点は第3楽章の終わりから切れ目なく続く終楽章冒頭のフォルテシモ表現である。立派だった。そして団員たちが下野の指揮に懸命に応えたから素晴らしい終楽章になった。

びわ湖ホールは音響が素晴らしいことでも知られているから、その効果も加わってのことだろう。

この曲のCD6枚持っているが、ベートーヴェンの交響曲の場合、生演奏と比較することにはあまり意味がないと思う。あるレベル以上の演奏能力を持つことが前提となるが、要するにどれだけ熱意を持って演奏したかが問題である。その意味で今回の演奏に十分満足した。

2018年8月26日

上高地の追憶散策、鈴木直久

今回のD38同窓会(10月16日(月)白馬ハイランドホテル)に参加するにあたり、加藤元久君とぼくは山本雅晴君から、折角信州に行くなら翌日もう一泊して上高地に行かないかと誘われた。三人は前川研究室の卒業研究仲間であり、山本君の提案で55年前の1962年(昭和37年)10月17日(水)にその地を訪れて一泊した。彼は触れなかったが、そうした経緯があるから、単なる散策ではなく、55年前のそれを一緒に追憶しながら歩こうという趣旨に違いないと思った。ぼくたちは無論歓迎した。

ところで加藤君は、上高地を含むその旅行の全行程について詳しいメモを作成し、保存している。それによれば、10月16日(火)、夜行で名古屋を出発し、木曽福島からバスに乗って、翌日早朝上高地に着いてそこで一泊し、松本に出て松本城を見物し、さらにバスで美ヶ原を往復し、夜行に乗るまでの時間は映画を観てつぶし、翌朝名古屋に帰着して前川研究室に直行した。若かったものだと思う。学校に直行したのは、厳しい前川先生に2泊3日の休暇を申請しにくかったからだろう。上高地では、先ず明神池まで往復してから大正池と河童橋の間を散策し、安曇村営ホテルに泊まった。しかし、今回は時間上の制約から明神池をあきらめた。

さて、今回、前夜は松本駅前の東横インに泊まり、6時31分松本発の松本電鉄に乗り、終点の新島々でバスに乗り継いで、8時10分頃大正池で下車した。観光客は55年前より格段に増えた。ここでも外国人の姿が目立った。天の恵みのような晴天だった。焼岳から煙が出ていない。その噴煙も大正池の立ち枯れの木々も当時はもっと多かった。土砂の流入により、池は小さくなったにちがいない。変わらないのは、眼前の焼岳の威容である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

田代池に行った。鮮やか濃緑色の長い藻が水の流れに身を任せている。梅花藻だと両君は言った。清流にのみ生育するこの藻はわが滋賀県にも自生するが、上高地のそれははるかに優美であり、同じ種類の藻だとはとても思えなかった。開花の時期を過ぎていることが惜しまれた。川マスらしい魚が泳いでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

梓川の右岸に渡り上流に向かって歩くとウェストン碑がある。ぼくたちは当時その碑を見たが、その後まもなく(昭和40年)作者自身の手により新しく作られたのが現在の碑であることを知った。さらに歩くと上高地アルペンホテルがある。当時泊まった安曇村営ホテルはその場所にあったと思うので、ホテルに入ってフロントの若い女性に尋ねて、1993年にリニューアルされるとともに現在の名前に変更されたことが分かった。石垣は元のままだという。ロビーの奥には以前の建物の全景の写真も掲げられている。平成の大合併の結果、経営主体は安曇村から松本市に継承された。

当時三人が夕食をしていた和室の窓から、焼岳の赤く染まった噴煙が眺められたと山本君が言ったから驚いた。ぼくは噴煙を見たとだけ記憶していたからだ。しかし考えてみれば、発光していない噴煙が日没後に見えるはずはない。そんな噴煙を見たのは貴重な体験だから記憶を改めた。なお帰宅してから調べて、焼岳は、ぼくたちが滞在した日を含め、その年の6月17日から翌年にかけて中規模の水蒸気噴火を繰り返したことが分かった。

往路のバスの車内放送が、上高地の代表的な樹木として、化粧柳、小梨および落葉松を紹介していた。化粧柳は見て格別趣のある木ではないが、北海道の十勝地方と本州ではここだけに生育していることを案内板により知った。55年前には落葉松林は黄褐色に染まっていたが、今年はようやく黄葉が始まったところである。小梨の木を見分けることはできなかった。他に薄紅色の果実を付けたマユミの木がかなり多かったが、紅色の乏しい秋のこの地に貴重な彩りを添えている。

小鳥たちは人間をあまり恐れないようである。コガラの小さな群に出会ったが、その中の一羽は、ぼくたちが近づいても直ぐには逃げなかった。また河童橋付近は観光客が多いのに、キジバトが人間に臆することなく動き回っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

河童橋に到着したころ、岳沢の上空は雲一つない青空だった。その辺りから眺める岳沢の光景は何と言っても雄大である。岳沢を今回ほど詳しく観察したことはない。小さな雪渓がまだ残っている。青空に接する稜線については、左手から西穂高岳、ジャンダルム、ロバの耳、奥穂高岳、釣尾根および前穂高岳を確認した。上高地を去るころには、岳沢の上空にも薄い白雲が拡がってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

河童橋の袂の堤防で休憩した。山本君が近くの清水川に案内してくれた。六百山の麓から湧き出した豊富な水が全長300mほどの短い川を形成し、河童橋から50mほど上流で梓川に合流している。それが清水川である。明神池に向う道にかかる清水橋から眺めるその川は、美しいことかぎりない。その名の通りの「清水」で、そこにも梅花藻が揺れている。上高地の飲料水源であるそうだ。ぼくはその橋を過去何度も通り過ぎたが、河童橋の間近にそのように美しい光景があることにこれまで気付かなかった。山本君に感謝したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

梓川の左岸に沿って帝国ホテルまで歩き、車道を引き返してバスターミナルに入った。計画した散策は無事終わった。明神池までは散策できなかったが、天気に恵まれた4時間近い散策で十分に満足した。予約しておいた12時丁度発の新島々行きバスで上高地から去った。

備考)三人を代表して文章を鈴木が、写真撮影を山本が、それぞれ担当した。(2017/10/22    鈴木記)