名工大 D38 同窓会

名工大 D38 同窓会のホームページは、卒業後50年目の同窓会を記念して作成しました。

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前田・宮口・三山
被曝と原子力人生(ある科学者の心の葛藤)

被曝と原子力人生(ある科学者の心の葛藤)

図書館の新着資料で、図書のセンセーショナルな表題「湯川博士、原爆投下を知っていたのですか」に興味をもったので借りて読んだ。

20150911_原子力

出だしは、京大で湯川博士の研究室で学んだ学生が帰郷の折、原爆投下に逢い、家族が皆死んで本人のみが数か月死線をさまよったが回復したこと。しかし、学校に戻って、研究室が異なる同郷の友人が、恩師の言葉「アメリカが新兵器を開発し、広島への投下を考えているので、故郷の親を疎開させて方が良い。」とアドバイスを受けて実行し、両親の命を救ったことを聞いたこと。また、そのアドバイスの席に湯川博士が同席したことを聞いて、湯川博士がこのことを知りながら、どうして自分に言ってくれなかったのかと苦悶しながら先生に聞くチャンスを逸したことを悔いる話である。その後、この事実を究明するが果たせなかった。

ただ、卒業後、湯川博士がこの学生、森一久氏に卒業後科学ジャーナリストの道を推奨し、日本の原子力開発を監視するように仕向けたことであった。結果、この森氏が70歳半ばで亡くなるまでの原子力人生を描いた本である。日本に原発が建設されてから、福島の事故直前までの原子力行政の中枢におり、客観的に眺めてきた人生であった。

著者によると、森氏は「原子力が人類にとって凶器となるような状況を防ぐことを最優先に」考えていた人であったと述べている。

実際、1960年初めにアメリカの文献を読んで、原発の事故があると当時の金で一兆円の補償が生じるので日本の原発もこの補償を事業者に課す必要があると官公庁、政界と原子力業界に訴えたが、民間企業ではこの補償が出来ないということで時の政府に取り入れられなかったようである。また、2002年に東電がデータ改ざん、隠ぺい工作を行ったときに糾弾し、将来、全電源損失が起こり得るので、緊急電源車を事業所ごとに3台準備することを訴えたが聞きいられなかったようである。

私は退職後TECからの要請で、東電の上記データ改ざん、隠ぺい工作の後作業で工場内の試運転時のデータの洗い出しと現況のデータとを照合し、経産省に報告書を提出する作業の応援に2006-2007年の6か月間、東電の柏崎原発に出張し、初めて原発の図面類を見た。当時は化学プラントの安全対策に比べて3重の対策を取られていると安全を疑わなかった。しかし、ひとつ重大な指摘「危険物ガスを感知するアラームが無い」と報告をしたが、東電のエンジニアーが「原発は、空気と水蒸気で発電するので、プラントのは爆発物が無いのでTECが建設する化学プラントと違うのですよ。」と鼻にも掛けられなかったことがある。しかし、福島の事故では原子力制御棒が高熱になると水素ガスが生成され爆発するということがあった。この反省で今では危険物感知器は必須設備になった。この本の中で、千代田化工の社長が、茨木のJCOでの事故を振り返り、原発は、日立や東芝のようなメーカでは安全な設計ができない、プラントエンジニアリング業界が設計すべきと森氏に話している項がある。実際原発プラントは、化学プラントのユーティリティ設備と似ている。しかし、日本のメーカーが殆どタッチしない反応器は危険な合成反応と同じ機能を持つものである。

この本は、原発にいささかでも不安がある方に、一読を薦めたい。内容は、エンジニアでないと理解できないことも多いが我が名工大のエンジニアなら日本の原子力の技術史として参考にできる本である。

(20015/09/14   前田記)

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