名工大 D38 同窓会

名工大 D38 同窓会のホームページは、卒業後50年目の同窓会を記念して作成しました。

 管理者     
前田・宮口・三山

前立腺肥大の手術、鈴木直久

はじめに

 5月下旬に前立腺肥大の手術を受けた。それに至る経緯と概要をまとめて、同じ病気で悩む会員、いないかもしれないが、の参考に供したい。

  • 経緯

今年の年初に、服薬で対処できない持病の在庫一掃を思い立った。

1月、両眼の白内障の手術を受けた。視力を回復するとともに近視眼鏡レンズの度数を大幅に下げることができた。

3月、大腸の内視鏡検査を受けた。一年前の検査で切除しなかった5㎜以下の小さなポリープ4個を改めて確認し、それらを全て切除した。全て良性のポリープであった。

最期に残ったのが前立腺肥大である。

それは退職した翌年の人間ドックで指摘され、服薬治療が始まった。先ずα1受容体遮断薬(種類が多い)を服用し、次に5α還元酵素阻害薬アボルブ(日本初かつ唯一)が加わり、最後にコリンエステラーゼ阻害薬ウブレチド(膀胱筋の働きを強める)が加わった。それらは“3点セット”とされる。しかし、昨年9月末に至ってそれらの効果が限界に達し、以後自排尿とカテーテルを用いる導尿の併用を余儀なくされた。

しかし、それを死ぬまで続けるのはたまらないので手術を受けることにした。

  • 手術方法の選択

選択肢はいくつかあるが、経尿道的前立腺切除術(TURP)が標準的な方法とされている。TURPは、前立腺を内側からループ状の電気メスで削り取る手術である。

しかし、私は経尿道的前立腺蒸散術(PVP)を選択した。それは2011年に保険適用となった最も新しい方法である。PVPとは、尿道から前立腺内に細い光ファイバーを通し内視鏡を用いて行う手術である。この光ファイバーの先端付近から高出力レーザーを照射し、レーザーが血中のヘモグロビンと接触すると発生する高熱を利用して、前立腺の肥大した部分を蒸散させる。また止血が同時に進行する。

この方法は次のような長所を持つ。

出血が少ない。したがって“血液さらさら薬”を服用している私でも手術を受けられる。

術後の経過が順調であれば、留置された尿道カテーテルを手術の翌日に抜いて自排尿で

きる。したがって3泊4日または4泊5日で退院が可能になる。

問題はPVPがまだ十分に普及していないことである。私が通院している大津赤十字病院では実施されていない。しかし、京都医療センター(伏見区)が、ほとんど全ての手術をこの方法に切り替えているので、そこで手術を受けた。

  • 手術の結果

私の予測をはるかに上回る目覚ましい結果だった。

手術は全身麻酔で行われ、醒めてから患部に痛みが全く生じなかった。出血(血尿)はわずかだった。翌日カテーテルが抜去され、信じられないくらい楽に自排尿できる

ようになった。残尿は数10mlに激減した。

3点セットの服用と導尿は停止された。

もっとも私の場合、術後運悪く腸内細菌に感染し、それを退治するために入院期間が延びた。

  • 入院費用

支払った入院費用は約5.5万円だった。

(2017年6月1日 鈴木直久記)

辻井伸行のピアノリサイタル、鈴木直久

昨日、近くにある「びわこホール」で、「辻井伸行 日本ツアー《バッハ・モーツァルト・ベートーヴェン》」を聴いた。

人気が先行するピアニストであるという先入観を持っていたし、バッハのイタリア協奏曲、モーツァルトのピアノソナタ第17番そしてベートーヴェンの「月光」および「熱情」という大作曲家の人気曲ばかりを並べたプログラム構成にも疑問を持ったが、何分にも非常に人気のあるピアニストであるし、家内が予約開始時刻から電話のプッシュボタンを押し続けてチケットを確保することができたので出かけたのだった。

チケットは完売したから大ホールの1848席は満席のはずだった。確保した席は、舞台に向って左手2Fの第2列だから演奏家の手の動きをよく見ることができる。周知のように辻井は背が高くないが、手は大きいことを知った。その手によって予想したよりも大きく力強い音が弾き出された。

彼の持ち味は輪郭のはっきりした美しい音にあると思っていたが、そうではなくて、実際には大きく力強い音で分かりやすく演奏する熱演型のピアニストであることが、この日の演奏でよく分かった。「月光」の第3楽章も迫力満点だったが、続く「熱情」が圧巻だった。その反面、バッハでは明晰さが、モーツァルトでは優雅さが、そして「月光」の第一楽章では情緒が、それぞれやや不足すると感じたが、彼のような新進気鋭のピアニストに大家の演奏の風格を望むのは間違いだろう。

あれほど人気があるピアニストでありながら、聴衆の期待に全力で応えた演奏に感動した。2000人近い聴衆が静まり返って演奏に集中していたから、大部分の聴衆が同じ思いだったと思う。

アンコール曲は、ショパンの「別れの曲」、自作の「風の家」と続いたが、最後の、彼がアンコールでしばしば弾くリストの「ラ・カンパネラ」に、残っている全てのエネルギーが注ぎ込まれた。それ以上何を望めようか。拍手は鳴り止まなかったが、彼自らピアノの鍵盤の蓋を閉じて演奏に終止符を打った。退場する彼の顏には疲労が滲み出ているようで痛々しかった。

(2017/03/21     鈴木直久)

 

 

ベトナム語の表記について、鈴木直久

10月下旬、5日間でベトナムを縦断するツアーに参加しました。印象深いことが多かったのですが、それらのうち国語の表記について取り上げてみたいと思います。

同国は有史以来長年にわたって中国の支配を受けましたから、漢字がある程度使用されているだろうと思い込んでおりましたが、全くそうでなかったので意外でした。表示は全て一寸変わったアルファベットなのです。その理由を現地ガイドにも質問しましたし、帰国後も少し調べてみました。いうまでもなく国語は国の文化の根幹ですからきわめて重要なものです。そこでベトナムの場合を簡単に紹介して皆様のご参考に供したいと思います。

公用語はベトナム語ですが、この国は元々固有の文字を持ちませんでした。そして秦の時代以来長期にわたって中国の支配を受けましたので、文章語としては漢文が用いられました。具体的には、現代語についても辞書に載っている単語の70%以上が漢字語であるくらいですから、漢字を主体とし、対応する漢字がない語については漢字を応用した独自の文字チュノムを作り、それらを混ぜて用いました。

17世紀にカトリック教のフランス人宣教師がベトナムでの布教のために独特のアルファベット文字を考案し、それによってベトナム語を表現できるようにしました。それをクオック・グーと呼びます。

具体例として2つの単語を表記してみましょう。
    ベトナム  Việt Nam
    クオック・グー Quốc ngữ

18世紀にフランスがベトナムを植民地化しフランス語を公用語としましたが、クオック・グーを第二公用語として普及させましたので、漢字とチュノムの使用頻度は次第に減り、1954年ベトナム民主共和国(北ベトナム)の成立により、ベトナムの国字として漢字に代わりクオック・グーが正式に採択されたことで、漢字やチュノムは一般には使用されなくなりました。

クオック・グーは学習し易く、国民の識字率を向上させることに貢献しました。その反面、言葉の意味を理解しにくい、漢文で書かれた文章を読める人がほとんどいなくなったなどという弊害も生まれました。今回の旅行でベトナム北部を案内した現地の若い女性ガイドは、漢字を使用すれば言葉の意味を理解し易いのに残念ではあると言っていました。その状況は、日本語のローマ字表記が実施されていたらどうなっていたかを想像すればよく理解できるでしょう。

日本もベトナムと同様に固有の文字を持たず、漢文を用いて記録する他ありませんでしたが、幸いなことに、祖先が万葉仮名、続いてひらがなとカタカナを考案したお蔭で、独特の風土から生まれた微妙な感性と情緒をも文章で表現することができるようになりました。ひらがながなかったら例えば源氏物語は決して生まれなかったでしょう。

なお、国境を接しているがベトナムのようにカトリックの熱心な布教活動の対象とならなかったからでしょうか、クオック・グーに相当する表記が考案されなかったカンボジャとラオスでは、公用語のクメール語がクメール文字で、ラーオ語がラーオ文字でそれぞれ表記されております。

以上 (2016/12/08  鈴木 直久)

京都にある宮内庁所管の庭園について

はじめに

  京都には宮内庁所管の京都御所、仙洞御所、修学院離宮および桂離宮という、4つの参観可能な施設があります。宮内庁京都事務所のホームページから参観を簡単に申込むことができます。参観は無料です。それらの庭園を簡単に紹介しコメントを加えて参考に供したいと思います。

 

1. 京都御所

  有名な場所ですから参観された方も多数おられるでしょう。以前は春と秋の特別参観機関しか入ることができませんでしたから、現役時代の京都への社員旅行にその参観を組み込んだツアーで初めて訪れました。退職して大津に移住してからも2度訪れました。

 今年(2016年)7月から通年拝観できるように改められましたので、現在では他の箇所同様インターネットで参観申込みをすることができます。

  参観コースは多くの大きな建物を巡るように設定されていて、庭園(御池庭)についてはその西側に沿って歩くだけです。中に入ることができないので残念ですが、全体を眺めて立派な池泉回遊式庭園であることを確認できました。

 

2. 仙洞御所

 本年6月上旬に初めて訪れました。京都御所のある京都御苑の東南部に大きな敷地を占める、高く長い築地塀で囲まれた一角がそれです。 

  指定の時刻に門が開かれて入り、待合所で紹介ビデオを見てから、案内者を先頭にして列を作って定められたコースを歩きました。最後尾には警備員が付いて、参観者がコースから逸脱しないように監視しています。参観者は約30人で外国人が数名含まれていました。出発してから待合所に戻ってくるまでの所要時間は1時間強でした。これらの状況は他の箇所でも概ね同じです。

  この御所は、当初後水尾上皇のために造営された上皇が居住する仙洞御所(南)と上皇の妃が居住する大宮御所(北)の、隣接する2つの御所で構成されていましたが、大宮御所は焼失して両者の間の塀が取っ払われ、仙洞御所に併合されました。その建物もその後焼失して庭園のみが残されています。

 ところが元の大宮御所の地に1867年に孝明天皇皇后の御所として御常御殿が造営されたためにその部分は再び大宮御所と呼ばれています。御常御殿の外観は和風の御殿建築ですが、現在内部は洋式に改装されており、皇族と外国の王族が京都を訪れたときの宿泊所として使用されていることを知りました。

  さて庭園の参観です。長年桂離宮に勤務していたが定年が近づいて最近転任してきたという男の案内者は、桂離宮には紹介することが無数にあるがここは少ない、と言いました。公務員らしからぬ率直な発言ですが、正直な感想でしょう。

  庭園は、旧大宮御所の庭園であった北池と仙洞御所の南池の二つからなり、参観はそれらを巡って歩きます。池を取り巻く木々の多くは大木であり、それらも見どころの一つでしょう。庭園の設計には特別な趣向も斬新さも認められないようですが、おおらかかつ優雅な王朝趣味が感じられます。とはいえ細部には、説明を受けて驚く工夫がこらされています。例えば南池の州浜には、何万個もの、ほぼ同じ大きさの、純白の、丸い自然石が敷き詰められています。案内者は石の材料費を現代の貨幣価値に換算してみせました。

 という次第ですが、京都市内に無数にある寺の庭と比較して格段に大規模であり、ゆったりした気分に浸れますから、一度は訪れる価値があります。

 

3.修学院離宮

 

 本年六月下旬に訪れました。駐車場がなくまた近くに民営駐車場もありませんから、アクセスに少々難があります。わたしは少し離れた曼殊院の駐車場に車を入れて、そこから歩きました。

  離宮は後水尾上皇が比叡山麓に造営した広大な山荘です。約545千㎡の敷地に上・中・下の3つの離宮で構成され、いずれも数寄な趣向の茶庭亭などが、閑雅に巡らされた池の傍らに建ち、自然と建物の調和が絶妙とされています。この離宮の魅力は、何と言っても郊外の自然と調和した優美な雰囲気でしょう。

  各離宮の間には田畑(それも敷地の一部であり、地元の契約農家が耕作しています)が広がっており、離宮の間は細いあぜ道で結ばれていましたが、明治天皇の行幸に備えて、馬車で移動できるように拡幅するとともに両側に松の木が植えられました。手入れの行き届いた美しい松並木ですが、周囲の自然との調和を考えればあぜ道のままだった方が良かったと思います。

  最も規模が大きくかつ立派なのは上離宮です。ですからガイドブック類を飾っている写真は例外なくそこからの眺望です。邪魔をする障害物はなく市街地まで遠望できますから、その眺望は実に見事です。 

 なお、離宮とはいえ宿泊施設はないので天皇といえどもは御所から日帰りしていました。

 

4.桂離宮

  一昨年の12月に参観しました。敷地は桂川の右岸(西)の土手と国道9号(旧山陰道)を二辺とする広い土地です。そのためアクセスはやや不便ですが、その代り広い無料駐車場が付設されています。

  ブルーノ・タウトが書いた「日本美の再発見」(岩波新書)の中の、「永遠なるもの-桂離宮」の一部が高校の国語の教科書に収められていて強い感銘を受けました。それ以来およそ60年を経て初めて訪れたことになります。感無量でした。

  桂離宮は、建造物とその内装の素晴らしさでもよく知られていますから、御殿群の参観が許されていないのは残念です。しかし点在する小さな建物類の内部は、庭を巡る間に外から見ることができます。ですから松琴亭の白と藍との大胆なデザイン(現在は色褪せて対照効果が半減しています)で有名な床と襖を見ることができました。

  庭園の素晴らしさについてはタウトを始めとして多くの人々が説明していますから、素人の私見を加えることは遠慮したいと思います。小道の表面の材料、庭石、多くの橋と石灯籠の材質と形状、生垣(桂垣と呼ばれる竹垣は有名)などの細部に至るまで細心の工夫と神経が行き届いいていることがわたしにも分かりました。

 近くに山がないので借景と呼べるものはありませんが、その代り景観を損なうビル群などがありません。訪れたのが12月でしたから、マガモの群れが池に浮かんで、動くアクセントになっていました。

  残念だなと感じたことをあえて述べたいと思います。御殿群の西側に梅の馬場という芝生を敷き詰めた平らな空地があります。蹴鞠の庭と呼ばれた時代もあって、蹴鞠を楽しむ場所だったようです。だから仕方がないことなのですが、庭を巡ってそこに来ると、何か間の抜けたような感じを否めませんでした。

  ところで、前述した仙洞御所の案内者は、米国の雑誌の日本庭園日本庭園ランキングで、桂離宮が毎年2位であることを口惜しがっていました。毎年第1位の足立美術館(島根県安来市)には4年前に行きましたから、案内者の発言が身びいきの感情だけによるものではないことがよく理解できます。

  50位まであるそのランキングは、Sukiya Living / The Journal of Japanese Gardeningが毎年発表しています。足立美術館の庭園が高く評価される理由はよく分かります。美術館自体は大観の作品を多く所蔵することで知られていますが、その庭園について予備知識を持ちませんでしたから、ひと目見てまるで絵のように美しいと驚嘆しました。規模が大きいこと、樹木、岩、砂、池および滝などの構成要素が周到に配置されていること、借景がきちんと確保されていること(それらの山々も同館が所有する土地です)、完璧な状態に管理されていること(例えば、11本の樹木が設計どおりの形に剪定されていますし雑草などは見当たりません)などの諸々の条件を充たしています。それにもかかわらず、わたしは気持がその中に融け込めませんでした。美しさが外面的であり余情が足りないからだと思います。

 わたしはそのように感じましたが、それら二つの庭園は、上述したように、毎年1位と2位を維持し続けているのですから、優劣を議論することは全く無意味であり、他に抜きんでた2つの最高の日本庭園であると言うべきでしょう。

以上

2016924 鈴木直久

ホッパーの作品「年に近づく」について(2)

投稿に対して、早速、前田、三山および宮口の三君から示唆に富むコメントをいただきました。思いがけないことで大変うれしく思います。それらのコメントは、優れた芸術作品は多様な見方が可能であることの表れだと思います。

 

また、宮口君のコメントには作品の寸法についての質問がありますが、鑑賞上必須であるその情報を記載しなかったことは、ぼくの明らかな手落ちです。そこで、改めて調べた結果、所蔵するThe Phillips Collectionのホームページに、この作品が紹介されており、そこに記載されていることを知りました。それによれば、寸法は271/8 inch(68.6cm) × 36 inch (91.4cm)です。

 

なお、描かれたのは、1946年ですが、同美術館がその翌年に購入したことも示されています。ぼくがそこを訪れたのは1989年(平成元年)ですから、購入後少なくともそれまでの間、目につきやすい階段の踊り場に掲げられ続けたとすれば、著明な同美術館における本作品の位置付けの高さが察せられます。

 

さらに、ホームページには、この作品に下記の説明(原文英語)が付いていますので。邦訳してご参考に供します。さすがに非常に丁寧な説明であり、これを読むと、ぼくは都会の孤独が表現されていることを強引に強調しすぎたようだと反省させられます。多くの見方が許されるということでご容赦いただきたいと思います。

 

今回の初めての投稿を通じて、ぼく自身いろいろ勉強させていただきました。ありがとうございました。

いずれまた別のテーマで投稿させていただきたいと思います。

 

Edward Hopper (1882-1967)  都会に近づく (Approaching a City)、1946

(The Phillips Collectionのホームページの紹介文の邦訳)

 

旅行はホッパーの芸術で繰り返されるテーマである。初期のヨーロッパへの旅、ニューグランドのいたるところへの多くの旅行、南部とメキシコでの休暇旅行が、絵画作品に多くのモチーフをもたらした。しかし、故郷から離れて、St. Francis’ Tower, Santa Fe(The Phillips Collection所蔵)のような、習作と水彩画を描くあいだに、ホッパーは風景の美しさを表現することの難しさを知った。ありふれた対象を積極的に探し求めて、目的地よりも旅行そのものにしばしば大きな意義を与えた。

 

ホッパーの最も印象的な作品には喜びがない。旅行者が決まって利用する場所-停車場、橋およびホテル-は、特有なあるいは人を引き付けるものが全て取り除かれている。一つの光景の不可欠な要素を明らかにすることによって、ホッパーは、あたかもそれが初めてであるかのように、その光景を本当に見ていると本作品を見る人に確信させる。

 

「都会に近づく」は、注目をひく一瞬、すなわち、列車が都会に近づくときの減速という感じを呼び起こす、線路と地下道の広角の眺めを表現している。見えない旅行者(および本作品を見る人)は、完全に都会の中にもその外側のいずれにもいないという、奇妙な中間段階にある。重厚な壁は、遠くのアパートメントのビルから前景を分離して、孤立という感じに寄与している。ホッパーは、見る人に、そのわびしい状況に焦点を合させるとともに、トンネルの向こうに横たわるものに対して準備させる。くすんだ色のパレット-灰色、褐色、および黄土色-を用い、現代の都会の興奮とエネルギーを示唆するかもしれない明るい色を完全に除いて、ホッパーはその旅行の不安を強調する。そのかわりに、不安と好奇心の両方の感情を呼び起こす。究極的には、「都会に近づく」は現代社会の矛盾を伝えている。鉄道は普通の人々が遠い場所に行けるようにしたが、またそれらの場所を目新しくないものにもした。細部を目立たせないで場所を基本的な形状に還元することによって、ホッパーはその眺めを匿名にした。それは鉄道路線上にあるどのアメリカの都会でもありうる。ホッパーは、その場所がありふれたものであると主張するとともに、列車の目的地をあいまいにすることによって、予測できないかつ未知の世界を暗示する。

 

以上

(鈴木 直久 2016/09/14 記)

ホッパーの作品「都会に近づく」について

2016年9月9日

 

ホッパーの作品「都会に近づく」について

鈴木直久

 

偶々この絵を思い出したところだったので、9月6日付三山君のメールに触発されて、これについて書いてみようと思いました。忘れられない絵の1枚です。

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古い話で恐縮ですが、平成元年10月の米国出張でワシントンD.C.に滞在したとき、絵画愛好家のY駐在員がThe Phillips Collectionに案内してくれました。彼は2階(だったと思います)への階段の踊り場の壁に掛けられた1枚の絵にぼくの注意を促して、ホッパーが描いた有名な絵ですと紹介しました。ぼくはその画家を知らなかったし、何の変哲もない都会の一光景、単純な構図、褐色を基調として薄くむらなく塗られた画面であり、人の気配が全く感じられない殺風景で淋しい絵だな、という程度の印象しか持ちませんでした。しかし、その後記憶から消えることなく、度々思い出してきました。

 

その後エドワード・ホッパー (Edward Hopper)(1882–1967)は、米国を代表する現代具象絵画の画家の一人であることを知り、作品を何点も見る機会を持ちましたが、ぼくにとってホッパーといえばこの作品です。

 

ところで、本稿を書くにあたって画題を知らなかったのでネットで調べてみました。日本語では「都会に近づく」です。しかし、一寸しっくりしないので原題も調べますと、「Approaching a City」というまことに適切な表現です。「the city」ではなく「a city」であるのもいいですね。特定のではなく、どこでもよい、換言すれば普遍的な米国の都会を意味しています。

 

ネットで読んだある記事は、この絵は「都会に近づく列車が最後のトンネルに入ろうとする瞬間が、列車に乗り込んだ旅人の視点で描かれています。無機質な都会のビル、そして冷たいコンクリートの壁に囲まれたトンネルに吸い込まれていくのではないか、という田舎から出てきた旅人の不安と、少しの期待が織り交じる心象が、ところどころ淀んだ絶妙な色彩に反映されています」、と的確に説明しています。

 

画面構成については、一つの見方として、井上幸治という人がブログのなかでうまくまとめていますので、敬意を表して転載させていただきます。

 

「画面の上半分だけを見たら何の取り柄もない都会の風景が描かれているのだけれど、周到に視点の逃げ場が消されているので、視線は画面下半分に描かれているレールの線に導かれて、地下鉄の入り口に向かうことしか出来ない。しかしここではレールの先にあるはずの消失点がブラックボックス化されてしまっているので、本来なら線遠近法に導かれて消失点に向かうはずの視線が行き場を失い、仄暗い入り口の隣にある、画面中央の汚れた白い壁を眺めることしか出来ない」

 

色彩の配置について説明しますと、左下のトンネルの強い黒色に対して右上の2つのビルに濃い褐色と青色を配置して色彩のバランスを上手く確保しています。同様に下の黒い線路に対して、上方のビルの上に黒い2本の煙突が配置されています。

 

ぼくのような素人に理解できるのはこの程度までですが、画家が構図と色調について周到な工夫を凝らしていることが察しられます。

 

では、この絵が何故人を引き付けるのでしょうか。それを書かなければ書く意味がないし、また読んでいただく皆さんにも失礼でしょう。

 

一言でいえば、そこに感じられる現代社会の孤独感であると思います。彼の作品に共通するのは、単純な構図、明暗の強調および深い静寂などですが、それらが独特の孤独な雰囲気を醸し出しています。また、この作品の場合には、乗客が眺めている光景であるにもかかわらず、人の気配も、車両の音と振動も全く感じられません。さらに、抜ければ別の自然の風景が現れる山のトンネルではなく、都会の地下へのそれが大きく口を開けているので、その闇の中に吸い込まれるという不安あるいは薄気味悪さが感じられるでしょう。その先にあるのは、都会の孤独です。トンネルに入ることに期待感を持つ人もいるでしょうが、ホッパーはもちろん彼らには属しません。

 

ぼくは孤独な雰囲気のことを強調しすぎるのかもしれません。画面を主導する褐色系の色調は暖かな雰囲気も併せて感じさせます。何とも不思議な絵です。

 

ホッパーが描いたのは現代米国社会の孤独です(本作品は1946年に描かれました)が、彼の作品がぼくたち日本人の心にも響くのは、その孤独が国を越えた普遍性を持つからにちがいありません。

 

以上

管理者より

三山さんから投稿があれば、同窓の皆さんにメールで連絡できないかと提案がありました。投稿のアップロードとメール送付も行う2重業務を一回でできないかと自動プラグラムを模索中です。 (前田 記)