彼が折にふれて詳細なメモを作成することは、かねてから承知していた。
それでも今回読ませていただいた「駒ヶ岳メモ」には本当に驚いた。何しろ61年前の名工大時代の記録なのである。しかもぼくは一緒に木曽駒ケ岳に登った三人のうちの一人である。
だからぼくにとっても非常に懐かしい思い出である。
その登山について、若干の補足説明と感想をまとめておくことにしたい。
1962年7月23日の夜、分校の近くだった思う羽田君の下宿を加藤君と一緒に訪れた。羽田君とは特別親しくしていなかったから、前川研の卒論仲間だった加藤君からその登山計画を知ったのだろうと思う。
ぼくは3000m級の高山に登ったことがなかったから体力に懸念があった。「鈴木君も行く決心がつく」と書かれているのはそのためだったのだろうと思う。
7月25日
中央線大曾根駅発の始発に乗車し、9:19上松駅で下車した。快晴だった。路線バスで二合目の登山口に行き、登山を開始した。
夕方加藤君が足に痙攣を起こしたので、登るペースが落ちた。
登山路と谷を隔てて向かい側の三ノ沢岳(2846m)に湧き上がってくる雲が壮観だった。
19:30 玉の窪小屋(現在の玉乃窪山荘だと思われる)着と記録されているように、日入時刻をやや過ぎていた。
7月26日
快晴。玉の窪小屋は駒ケ岳頂上の直下にあるから、難なく山頂に登ってご来光を拝むことができた。頂上から眺望できる高山は全て見えたはずであるが、山の知識のなかったぼくが確認できたのは富士山だけだった。それでも十分満足した。
濃ヶ池に向かう途中で「唯一の黒ユリを見つける」と記録されているが、その黒ユリをぼくも一緒に見た。
濃ヶ池行きを断念して引き返し宝剣岳に登った。その頂上で一人の男が逆立ちをしたので、度肝を抜かれた。
「18時頃宮田小屋着」と記録されているのは現在の宝剣山荘のことだろうと思う。
7月27日
福島側登山口に下り、偶々通りがかったトラックに福島駅まで同乗させてもらったと記憶する。
両君とは福島駅で別れて、翌日、二年前に死去した父の新潟県妙高市の故郷を訪れた。
なお、その二か月半後に、山本雅晴君と加藤君と三人で上高地を訪れたのも懐かしい思い出である。
羽田君にはその後会っていないが、三菱江戸川化学(現在の三菱ガス化学)に入社したと聞いたことがあるような気がする。一年後輩の卒業生が知っているだろうと思う。
以上