名工大 D38 同窓会

名工大 D38 同窓会のホームページは、卒業後50年目の同窓会を記念して作成しました。

 管理者     
前田・宮口・三山
ブログ

今年のラストラン 上高地探訪 、山本信夫

11月に入って山登りする人々にとっては、その山々に最も身近な所、即ち上高地を訪れた。

幸運にも天候にも恵まれて、久しぶりに十分に歩き回ることができた(1万歩以上)。

紅葉を求めて多くの人々が来ていたが、ほとんどが外国人だった。

写真1  新雪で真っ白の奥穂高岳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真2  河童橋と奥穂高岳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真3  河童橋越しの焼岳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真4      国宝 松本城

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真5  松本城から東方に見た美ヶ原高原方面を望む

 

千葉県立美術館:没後50年「高島野十郎展」鑑賞記 山本 雅晴

約3ヶ月振りに美術館賞に千葉県立美術館の表題の展示会を訪れた。千葉県立美術館の開館50周年の記念の大きな展覧会である。前回、本美術館を訪れたのは5年前の開館45周年記念の日本が画家「後藤純男展」であった。高島野十郎はまだあまり一般に名前の知られた画家ではないが、約20年前に三鷹市美術ギャラリーでの展示会で初めて知った。非常に丁寧な描写で好感のもてる印象であった。2025-8-31のNHK教育TVの

「日曜美術館」で放映され詳しく紹介された。今回の展覧会は、福岡県立美術館が1980年代から地元出身の当時は無名に近い洋画家「高島野十郎」の作品に注目した学芸員たちが地道に調査発掘し蒐集し、企画した展覧会で、千葉県立美術館→福岡県立美術館→豊田市美術館→他全国各地に巡回される。千葉県立美術館での本展の趣旨を借用すると次のようになる。

高島野十郎(1890~1975)は、福岡県久留米市出身で主に東京で活動し、晩年千葉県柏市に移り住んだ洋画家で、「蝋燭」や「月」などの主題を細部までこだわった筆致で描きました。没後50年の節目を機に開催する本展は、これまでに開催された高島野十郎を越える最大規模の回顧展です。代表作はもちろんのこと、彼の芸術が形成されたルーツを遡り、生涯にわたって自身のよりどころとしてきた仏教的思想を読み解きつつ、青年期や滞欧期の作品など、従来の展覧会では大きく取り上げられることなかった部分にもスポットを当てます。さらに、野十郎や関係者による書簡や日記、メモ等の資料をもとに、彼がひとりの人間としてどのように生き、周囲とどのような関係を築いて絵描きとしての歩みを進めたかという部分にも注目し、野十郎の人間像にも改めて迫ります。野十郎は71才の時に当時まだ田畑が広がる静かな田園地帯であった柏市増尾に移り住み、晴耕雨読ならぬ晴耕雨描の生活を送りました。彼は訪ねてきた姪に「ここは俺のパラダイスだ」と語ったといいます。千葉の海もまた、絵の題材として彼の心を掴みました。野十郎終焉の地であり、月や海など彼を魅了した豊かな自然のある千葉で、野十郎の絵画世界を思う存分慕っていただけるまたとない機会です。

千葉県立美術館での「高島野十郎展」の作品展示数は同時代の関連画家の作品も含めて、171点、でうち

高島野十郎の作品は156点(福岡県立美術館:48,個人蔵:84,他の美術館:6,法人他:18)。

最初期の旧制中学時代から1975年の遺作までを網羅している。なお、本展では一部の作品を除いて写真撮影が許可されていた。東大出身の画家の展覧会は初めてである。作品にも科学者としての厳密な表現も見られるように感じた。また、裕福ではなかったが、画材や絵具は良質なものを選んで使用しているようだ。

また、兄弟や親戚などの援助で、1929年~1933年の長い期間ヨーロッパの各地を訪れ、デューラーやゴッホなどの作品に触れ、その影響もみられる作品もあった。作品表現は全体的に野十郎流の写実主義?

以下に写真を添付します。

2.蓮華 1904~09 旧制中学時代

 

写真はうまくアップロードできななったのでPDFファイルで見てください、

高島野十郎展2025-9--4

 

 

 

 

 

 

 

  • 千葉県立美術館:開館50年の展覧会会場

                                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3.自画像 1920         4.りんごを手にした自画像 1923   5.煙草を手にした自画像 1945

                                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 6. 蠟燭 (16点展示),お礼に渡していた?  7.からすうり 1935      8.満月(月を描くのではなく闇を描く)

                                         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                  9. パリ・ノートルダムとモンタニュー通りⅡ 1932                 10. ひまわり(ゴッホ調) 1954

   高島野十郎の作品は風景画や静物画に親しみが持てる。

 
   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      11. すいれんの池 (新宿御苑) 89×130 野十郎の最大の作品 1949

                                              

 

 

 

 

 

 

 

 

       12. 境内の桜 1955                                   13. 雪の村 1958

                       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    14. 海辺の秋花 1953                          14. 睡 蓮 (自分で栽培した) 1975 絶筆

富士山登山、山本信夫

富士山登山の季節となった。昨年も同じ時期に登り、本ブログに掲載させていただきました。

以前から富士登山について、特に装備やマナーについて問題視されてきており、私たち一般人も苦々しく思ってきたが、

今年の富士では、高額入山料や登山マナー指導等が実施され、やっと普通の高山登山ができるようになった。

今回で富士山登山は13回目になるが、段々とその体力低下を感じつつある。若いころから「下り」には自信があった

が、遭難や大怪我をしないうちに、ボツボツ矛を収めるべきだろうか。

(写真)

1 富士宮コースの出発点 標高2400m 他のコースより100ⅿ以上高い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2 日の出直前 下界は雲で一杯

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3 バックに影富士

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4 ここは九合五尺地点(3590m)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5 頂上浅間大社奥宮前

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6 令和6年富士山高齢登拝者名簿(富士山本宮浅間大社編)の一部

今年分は年末に刊行予定

梅雨入り直前 富士五湖巡り   山本信夫  

富士山は 山頂から5合目あたりまで白雪におうられているのが、最も美景で、力強い姿である。ところが 6月5-6日に行ってみると 予想以上に残雪僅かとなっていた(とくに西側)。

天候にめぐまれたおかげで 富士の美景と力強さを十分に満喫できた。

 

写真
①本栖湖からの富士山(千円札の裏で有名)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

➁精進湖からの富士山

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

③西湖からの富士山

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

④河口湖からの富士山

 

 

D38東京、昼食会、2025/05/22

三山さんのお世話で、久しぶりにD38東京の昼食会が開催されました。しかし、参加者は三山さん、山本(信)さん、宮口さん、前田と4名の淋しい集いでした。それでも2時間たっぷりと歓談できました。参加常連の大見さんが亡くなったことは残念でした。

開催場所、東京駅構内 OLD STATION

年末の四国松山帰郷、山本信夫

12月16~17日に所要あり、松山に帰郷し、道後温泉に宿泊した。

久しぶり松山だが温泉に入り、チンチン電車に乗り、落ち着いた雰囲気に

充分満足することができた。

写真1 機上より雪の山岳を期待したが南アルプスの山のみだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真2    道後から松山城を望む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真3    道後のシンボル伊佐爾波神社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真4    まだ晩秋の大和神社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真5    松山城正面

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真6    城山天守より市内を望む 遠くに石鎚山も

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真7    帰りの機上 黒い窓に突然灯がさしました

2024.10.20-21 石鎚山1982m  今年の山じまい  山本信夫

山男たちは、11月からの雪山を控えて10月下旬に今年の締めの山行をプランするのが慣わしとなっている。
自分は10月20-21日に、最初の百名山であった四国の石鎚山に登ることにした、8回目である。
前もって天候等は調べて行ったのだが、生憎曇天で風が強い、雨量少なくなったのを見計らって、朝6時10分成就を出発。始めは下り一方、もったいなくもまだ下る。多くの木々で風害は避けられ るが。一の鎖(石鎚山は鎖場の連続でも有名)から三の鎖、雨で滑り易く危険なので迂回路を行く。脇道は,お上りさん用、お下りさん用と分けられ、金属製の立派なのが設置されており、それを登って頂上に至った。(到着9時40分)
頂上は風強く、周囲の山々全く見えず真っ白。神社にお参りしそのあたりの写真を撮って、下山。 13時40分成就着。

写真① ロープウエイ 下は西之川 上部に瓶ヶ森

 

写真➁ 石鎚神社成就社 中央の空白部に天気よければ石鎚山が見える

 

写真③ 石鎚神社山頂社

 

写真④ 頂上での唯一の写真

10月28日、D38全国会が盛大に開催されました。三山雅敏

去る10月28日(月) 名古屋 浩養園でD38全国会が開催されました。参加者は各地から集まった下記14名の諸氏です。
参加者(あいうえお順、敬称略) 生信良雄、井上和延、大見俊彦、木村吉宏、高木康信、竹内幹雄、津田孝雄、中神紀典、西村和晃、福田寿夫、前田和男、三山雅敏、山本信夫、山本雅晴
午後1時、浩養園に集合、まず記念写真を撮影、その後早速会食に入りました。しゃぶしゃぶ コース
飲み放題で、おいしい料理とお酒を摂りながらワイワイガヤガヤ、楽しい時間を過ごすことができました。
料理の大半が出された時点で、参加者の近況報告に移りました。今なお元気で活躍されている方、加齢による持病持ちで苦労されている方、いろいろのお話しがありましたが、それでも皆さんこの会に参加できる幸せを感じておられるように見えました。
午後3時前、次回の全国会開催をどうするかについて話し合いました。結論として次回も1年後名古屋で開催することになりました。開催日時は令和7年10月27日(月)午後1時、開催場所は、浩養園はやや交通の便が悪いので、名古屋駅近くの居酒屋かレストランに変更することになりました。
午後3時、全国会は終了し、一部の方は帰路につきましたが、残りの方は浩養園のコーヒーショップで30分ほど懇談後帰路につきました。
D38会員の皆様、来年の開催日をお手帳にご記入ください。
皆様とまた来年お会いできますこと楽しみにしております。

 

下記は当日、三山さんが持参した写真(注:梶谷氏提供)


私が見たアメリカ Ⅳ、山田 稔

12.外国人から見た日本語

前述のように、この学校では、スペイン語、フランス語、ドイツ語、中国語、日本語の選択コースに分かれる。その当時では、スペイン語、フランス語に、そして意外なことに、日本語、中国語の順に人気がある。中国語の人気はまもなくもっと高くなるだろうと。今のように、米・中の関係が対立的になると、どうなっているかは分からないが。

しかし、文字も違う、全く違うジャンルの日本語に、西洋人にはさぞ難しいだろう、大変だろうとずっと思っていた。しかし、いろいろなルーツを持つ当地の英語話者は、「日本語は活用形にあまり例外がなく、規則正しく変化するから、覚えてしまうと簡単だ」と言うにはびっくりした。勿論、僕が日本にいる外国人に日本語を教えるボランティア活動を18年間続けたが、その間にも「日本語は難しい。この年になっても読めない漢字、書けない漢字はいくらもある。皆さん(外国人)もわからないことに悩まなくてよい」と激励してきた。日本語の奥深さにはキリがないことを承知の上で。

そして、どの人間の言語獲得の過程と同じように、やはり言語はまずspeakingからであろう。彼らは、意外に日本語をうまく操るのである、書くのはデタラメでも。

ちなみに、日本人で、各種の外国語を学んでいる人のうち、スペイン語を学んでいる人が一番Speakingできる率が高いということを2,30年前に聞いたことがある。フランス語はリエゾンがあるから、文字からとSpeakingからとは全く異なって難しい。

語学はやはりHearing 、Speakingから始めるのが、言語獲得の過程と同じように 自然なのだろう。

フランス語などは、動詞の変化まで来ると、その複雑さでギブアップする。そこへ来ると、ドイツ語は今思うとやさしいと思う。

 

13.人格の尊重

ちょっと大げさだが、どんなに年寄りでも、あるいは、子供でも一人の人間として、個の人間として対応してくれるような気がする。日本では、年寄りとみると、「汚い年寄り」と、疎んじられる。また、「子供だから」「女のくせに」「歳だから」と、ある枠で初めから忌避されるような社会である。

でも、わずかな期間であったが、そういうことで不快な目にあったことがない。何かができる、話をしていると面白いと感ずれば、その個の人格を認め、対等に扱ってくれるような気がする。滞在期間中の居心地は、日本よりも良かった。誰と話をしても、敬語を使うことに神経を使う必要がないこともあるかも知れない

少しそれるが、バスに乗っていた時のこと、停留所でもないところでバスが停まった。バスの乗客の若いグループ3人ほどが、バタバタと走って降りて行った。何事かと思うと、バスの少し先方で、電動車に乗る老人が、道の端で渡りきれなくてひっくり返っていた。若者らは、電動車をまともな位置に戻し、動かせるようにして、再びバスに乗り込んできた。乗客皆で拍手、このシーンに感動した。

 

14. 原爆の教え方、国家の意識

言うまでもなく「原爆が戦争を終わらせた」と教育されていた。勿論、アメリカがNo.1の国であると。

さらには、一日に一回は朝一番、授業が始まる前に、全校生徒が一斉に教室ごとに全員が立ち上がり、Pledge of allegianceを胸に右手を当てて生徒の唱和から始まる。

何をのたまっているのか分からないので、学生に尋ねてみた。以下のようなことだが、彼らも正確なスペルがさっと書けないのを見てある意味では安心もした。

I pledge allegiance to the flag of the United States of America and to the republic for which it stands, one nation, under God, Indivisible, with liberty and justice for all.

アメリカは個人崇拝(日本の戦前の天皇陛下のように)ではなく、国に対して誓う。

Texas Pledge

Honor The Texas Flag:  I pledge allegiance to Thee Texas, One state under God, One and Indivisible.

アメリカのように多民族国家、各種のルーツを持つ人がいる国が、各人は「国家意識」を教育されている。

ついでにもう一つ、何回か小テストに立会い、その採点もした。その中で、何人かが落書きのように次のようなことが書いてある。On my honor, I have neither given nor received any unauthorized aid on my works nor do I tolerate academic dishonesty in others.

尋ねてみたら、要するに「私はカンニングなどの不正行為はしていない」ということを誓約している表現である。先生によっては試験を受ける学生全員に書かせていることもあるらしい。

 

15.日本製品、特に車

大きなスーパーの店の前に駐車している車をチェックしてみた。あいにくペンを持っていなかったので、日本車とそうでない車を指でプラスマイナスしながら(同数ならばゼロになる)カウントしてみた。

なんと50台くらいの母集団で、日本車がわずか2,3台少ないだけ、つまり、50%近くトヨタ、ホンダ、ニッサン、マツダ、三菱、である。他はVolvo、BMB, VW, Ford, GM, Hyundai,,,,.驚きである。

レクサスの販売店が市内にあり、セダンタイプだけでなくRV仕様のレクサスも多く見られる。日本の軽自動車は見られないが、それよりも小型のかわいい車も時々見る。アメリカ北部では、車産業がだめになって大変である。その現実がここにも反映されている。もう一度別の母集団でカウントしてみても同じである。

ホストファミリーはレクサスに乗っていた。娘婿は、日本車は信頼性があり、燃費が良く、一番良いと。

ホストファミリーの娘(1970年前後生)は、「我々はJapan as No.1と教えられてきた」。対する我々の少年時代は、「アメリカはなんでも一番、日本は二等国どころか、三等国だ」と。

 

まとめ

  • 心身ともに健康であること。しかも、自分だけでなく身近に健康上の心配を抱えていては不可能である。我が家族のいろいろな面での協力に感謝する。
  • 何事にも臆せず行動する「ド心臓」も必要である。その「ド心臓」は、言葉の壁を超え、コミュニケーションにも必要である。構えたり、待っていてもなにも進まない。