名工大 D38 同窓会

名工大 D38 同窓会のホームページは、卒業後50年目の同窓会を記念して作成しました。

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前田・宮口・三山

加藤元久君の「駒ヶ岳メモ」を読んで。 鈴木直久

彼が折にふれて詳細なメモを作成することは、かねてから承知していた。

それでも今回読ませていただいた「駒ヶ岳メモ」には本当に驚いた。何しろ61年前の名工大時代の記録なのである。しかもぼくは一緒に木曽駒ケ岳に登った三人のうちの一人である。

だからぼくにとっても非常に懐かしい思い出である。

その登山について、若干の補足説明と感想をまとめておくことにしたい。

1962年7月23日の夜、分校の近くだった思う羽田君の下宿を加藤君と一緒に訪れた。羽田君とは特別親しくしていなかったから、前川研の卒論仲間だった加藤君からその登山計画を知ったのだろうと思う。

ぼくは3000m級の高山に登ったことがなかったから体力に懸念があった。「鈴木君も行く決心がつく」と書かれているのはそのためだったのだろうと思う。

7月25日

中央線大曾根駅発の始発に乗車し、9:19上松駅で下車した。快晴だった。路線バスで二合目の登山口に行き、登山を開始した。

夕方加藤君が足に痙攣を起こしたので、登るペースが落ちた。

登山路と谷を隔てて向かい側の三ノ沢岳(2846m)に湧き上がってくる雲が壮観だった。

19:30 玉の窪小屋(現在の玉乃窪山荘だと思われる)着と記録されているように、日入時刻をやや過ぎていた。

7月26日

快晴。玉の窪小屋は駒ケ岳頂上の直下にあるから、難なく山頂に登ってご来光を拝むことができた。頂上から眺望できる高山は全て見えたはずであるが、山の知識のなかったぼくが確認できたのは富士山だけだった。それでも十分満足した。

濃ヶ池に向かう途中で「唯一の黒ユリを見つける」と記録されているが、その黒ユリをぼくも一緒に見た。

濃ヶ池行きを断念して引き返し宝剣岳に登った。その頂上で一人の男が逆立ちをしたので、度肝を抜かれた。

「18時頃宮田小屋着」と記録されているのは現在の宝剣山荘のことだろうと思う。

7月27日

福島側登山口に下り、偶々通りがかったトラックに福島駅まで同乗させてもらったと記憶する。

両君とは福島駅で別れて、翌日、二年前に死去した父の新潟県妙高市の故郷を訪れた。

なお、その二か月半後に、山本雅晴君と加藤君と三人で上高地を訪れたのも懐かしい思い出である。

羽田君にはその後会っていないが、三菱江戸川化学(現在の三菱ガス化学)に入社したと聞いたことがあるような気がする。一年後輩の卒業生が知っているだろうと思う。

以上

山本雅晴ご夫妻の2023さくら巡りを読んで、 鈴木直久

美しい写真が多く紹介されているので、楽しく読むことができた。
天候に概ね恵まれて、各地で桜を満喫できてよかったと思う。11泊12日の長期旅行であることに先ず驚いた。
その間毎日歩き続けられたことにも驚いた。最後の雨天の一日を除いて延べ約87㎞に達する。平均すると一日約8㎞である。年齢を考えると大変な強行軍だったと思う。奥さんがよく頑張られたと感心する。

中国地方
福山城の天守はJRの車窓から眺めたことがあるだけである。その名城が1945年の大空襲で焼失しその後再建されたことを、今回ネットを見て知った。
明王院の五重塔と本堂が国宝であることを知っているので、国宝建造物にも格別の関心を持っているわたしは訪れてみたいと長年思っていたが、家内が姉と一緒に訪れてしまったので、いまだに実現していない。
また広島の原爆ドームを訪れたことがないのは痛恨の極みである。明王院と併せて今年は実現させたいと思う

奈良
大仏殿の中庭で花見ができるとは思わなかった。振り返ってみると奈良には何回も訪れたのに、桜の季節には一度も行かなかったことに気付いた。
「山の辺の道」は確かに全ルートを歩いたことがある。ウォーキングの対象ルートとしては、南と北の二ルートに分かれており、古道の一つとして知られている「山の辺の道」は南ルートの方である。わたしも山本さんと同じように石上神宮を出発点として南ルートを歩いた。

石上神宮は由緒深い古社である。拝殿は現存する日本最古の立派なもので、国宝に指定されているから必見である。
また出雲建雄神社拝殿は、元来は内山永久寺の鎮守の住吉社の拝殿であったが、明治維新の廃仏毀釈で内山永久寺が廃寺となったために移築されたもので、内山永久寺の貴重な遺構として国宝に指定されている。
また山本さんの写真にある楼門は重文に指定されている。
さらにまた写真にある神鶏(約30羽いるという)は放し飼いにされているので、初めて訪れる人は一寸驚くことだろうと思う。
長谷寺には桜と名高い牡丹の開花の季節に訪れたことはないが、本堂(国宝)の懸け造りの舞台から境内を見下ろす眺めが好ましいと思う。

京都
渉成園というのは、参観者一人につき500円以上の協力寄付金をお願いしているという不思議な入場料徴収システムを採用している東本願寺所有の庭園である。国の名勝に指定されている。
高い築地塀で囲まれているから、例えば河原町通りを市バスで通っても、内部を全く見ることができない。だから知らない人は、何の場所だろうと不思議に思うにちがいない。
一度入場したことがある。約1万坪の広大な敷地に多彩な建物が配置されているが、悪趣味?なものが多く感心しなかった。
円山公園のシンボル的な存在である枝垂桜は、何年か前に見たときは樹勢がかなり衰えている感じがしたが、現在はどうであろうか。山本さんの夜景の写真では、枝ぶりがよく、樹勢が回復しているように見える。
大津と京都の市境を越えて山科に入ると、琵琶湖疎水と毘沙門堂に容易に達することができる。だから毘沙門堂には拝観ばかりでなく、京都市内へのウォーキングの中継点としても何度も訪れた。
毘沙門堂自体は境内が狭く、山本さんが書いているように桜の木はあまり多くないが、写真に示されている立派な枝垂桜がある。
これも写真が示しているように琵琶湖疎水の岸に列植されている桜は見事である。疎水は京都と大津の市境では隧道に潜っているが、大津の出口から琵琶湖に至るまでは、大津市を代表する桜の名所となっている。

仁和寺
「御室桜」と呼ばれる遅咲きの桜で知られている。しかし、それらは樹高が約3mに低く抑えられているから、あまり好きではない。
桜と同じ時期に日本シャクナゲとミツバツツジも咲いている。滋賀県の県花はシャクナゲでありあちこちに自生しているが、わたしが育った岐阜県でシャクナゲを見たことはなく、ツツジといえばミツバツツジであるから、仁和寺で出会えて懐かしい気持がした。
京都府立植物園となからぎ(半木)の道は京都市を代表する桜の名所の一つだと思う。
大津に転居して間もなく、植物園の桜を見に行くために地下鉄の北大路駅で下車して賀茂川の橋を渡ったら、岸の土手の上の道に紅枝垂れ桜の並木が続いていたので驚いた。それがなからぎ(半木)の道である。
三千院は何度も訪れたが、紅葉ばかりではなく桜の名所でもあることを知らなかった。桜の季節に行ったことがないからである。その寺で拝観すべきものは、何といっても往生極楽院の阿弥陀三尊像であると思う。最初に拝観したときには、観音菩薩と勢至菩薩の両脇侍が前屈みの姿勢であることが気になったが、それらは信者の臨終に際して、極楽浄土から迎えに来られる様子を表現した来迎様式であることを知って納得した。
原谷苑は京都の原谷にある知る人ぞ知るさくらの名所である。数年前に一度訪れた。わら天神の鳥居付近から往復の無料シャトルバスが運行していて、それを利用したと思う。

大変人気のある花見スポットで、外国人観光客も多数タクシーで乗りつけていたから驚いた。枝垂桜が多く植えられているが、他の種類の桜も多いし、桜以外の様々な花木も咲いていた。
その様子を山本さんの写真が美しく伝えている。
平安神宮の神苑を彩る、約150本の紅枝垂れ桜は、春の京都を象徴する光景の一つである。それほど多くの紅枝垂桜を眺めたのは平安神宮が初めてで、その華麗さには本当に感動した。
平安神宮の花見の場面は、谷崎潤一郎の『細雪』にも登場するが、その花見の部分はわたしたちの高校の国語の教科書に採用されていた。
枝垂桜の名所としては、他に醍醐寺、京都御苑の旧近衛邸跡などがある。
伏見稲荷の千本鳥居を通って稲荷山の頂上までを往復することは一度体験すれば十分だと思う。
標高は233mにすぎないが、予想外に体力を消耗するからである。家族で訪れたとき息子と孫は往復したがわたしたち夫婦は途中で断念した。
石峰寺は伏見稲荷から近い深草にあり、伊藤若冲の墓と彼が作らせた五百羅漢があることで知られている。山本さんは若冲のフアンだから三度も訪れたのであろう。
わたしは11月に前立腺の定期検診のため、同じ深草にある京都医療センターに行くので、そのときに石峰寺を訪れて、五百羅漢を拝観しようと思う。
城南宮はしだれ梅の名所として知られている。しだれ梅の名所というのは珍しいと思う。それを見に行ったことがある。それは見事な光景だったが、境内が狭いのでここも一回行けば十分だと思った。

以上

国立西洋美術館訪問と横浜市内散策(D38 会余録)、  鈴木直久

前日には山本雅晴君のお誘いで国立西洋美術館を訪れ、翌日はやはり山本君の案内で横浜市内を散策することができた。そのおかげで今回のD38 会参加がより充実したものになった。

 

国立西洋美術館が開館したのは1959年のことで、彼が書いているように、二人は偶々その年に個別に同館を訪れたのだった。そのことを知ったのは比較的近年である。

ル・コルビュジエ(1887-1965)が設計した本館は瀟洒な外観が現在も変わらない(山本君が記念撮影して下さった)。国の重要文化財であり、かつ敷地を含む全体がユネスコの世界文化遺産に指定されている。

 

山本君は現在開催中の『ピカソとその時代』(ベルリン国立ベルクグリューン美術館展)に誘って下さったのだった。わたしはその美術館の名前さえ知らなかった。その内容については彼がD38 のホームページにすでに投稿されたので、お読みいただいたことと思う。

 

展覧会(地下展示館で開催中)を出てから、久しぶりに訪れたわたしのために、平常展示を案内して下さった。二十数年振りに見た平常展示は作品数が格段に増えていて、世界に誇ることができる一流の西洋美術館であると実感した。

 

翌日はやはり山本君の案内で木村および山田両君と一緒に横浜市内を散策した。そのルートを約一週間前に態々下見して下さったので恐縮した。さらにその概要をまとめてすでにD38会のHPに投稿して下さった。

 

港の見える丘公園と山下公園は、昔亡母とまた息子夫婦とも訪れたことがある。当時からの最も著しい変化は、植栽の手入れが行き届いていることであろう。振り返ってみれば横浜に限らない。全国各地の公園が同様である。日本経済の発展がそれを可能にしたのだと思わずにはいられない。

 

最後に市営バスを利用して三渓園に行った。昔横浜の社宅に住んでいたときに妻と一緒に訪れたことがある。園内の様子は当時と基本的に変わっていないようだ。それにしても、園内が広大であり、立派な建物が多い(重要文化財指定建造物)、そして手入れが行き届いている(多くの人が働いている)。この施設を構想し、造営した原三渓の財力が莫大だったことに改めて驚嘆させられた。当時の税制はどうなっていたのだろうと考えたくなるほどだ。

入園料はわずか700円である。

 

無料ボランティアのガイドがいたことにも驚いた。昼食のために門外にある手ごろな食堂を紹介してくれ、食事を終えて再び園内に入ると、女性ガイドは私たち四人を待ってくれていて、木村君のJR切符の指定時刻から逆算して案内コースを調整し、市営バスに乗り遅れないように案内してくれたのだ。そして最後には私たちと同じバスに乗った。

 

佐藤陽子の死、鈴木直久

昨8月1日の新聞とネットが、彼女が7月19日に死去したことを伝えた。まだ72歳で死因は肝臓がんだった。

彼女は版画家の池田満寿夫と実質的には夫婦でおしどり夫婦として知られた。わたしは愛知県知多半島にある工場に勤務していたときに、その二人が一組の講師の文化講演会を聴いたことがある。その印象があまりにも鮮明に記憶に残っているので、そのことを書いておきたい。池田満寿夫は本業の版画に加えて、1977年に『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞を受賞して、当時人気絶頂だった。

その彼が講演会で選んだテーマが作陶だったから意外だった。知多半島は常滑焼の産地だから、そのことと関係があったのかもしれない。皿を作るために粘土をこねる苦労を飽きもせずに語った。それなりに面白かったが、わたしとしてはできれば版画の話を聞きたかった。

感銘を受けたのは続いて聴いた佐藤の歌唱だった。曲目は『蝶々夫人』の「ある晴れた日に」だった。写真で分かるように彼女は日本人歌手としてはまれな立派な体格である。その歌唱が会場に響き渡った。それが忘れられない最高の「ある晴れた日に」である。

なお、彼女の前夫が元外務官僚で退官後外交評論家として活動した岡本行夫であることを、佐藤の死と関連して知った。彼もまだ74歳で若かったのに、2020年に新型コロナウイルス感染症で死去した。

名工大在学時の綱島教授の講義 To Please His Wife (妻を喜ばすために) について、鈴木直久

毎回のように昔話が多く恐縮です。    鈴木直久
何となくトーマス・ハーディのTo Please His Wife (妻を喜ばすために) を、そして関連して綱島教授のことを思い出したので、少し調べてみたら、次のような文章が見つかりました。

http://www.maiguch.sakura.ne.jp/ALL-FILES/ENGLISH-PAGE/MISCELLANEOUS/html-hardy-to-please-his-wife/to-please-his-wife-E-&-J-intro-20201201-WEB.html

愚生が1957年4月から1961年3月まで學部教育を受けた名古屋工業大学は,第二次世界大戦後,旧制・名古屋工業専門学校を基に教育改革法に基づいて創設された,いわゆる新制度大学のひとつで,當時は教官も施設も未だ満足にほど遠いものでした。退屈な授業の中の例外の一つは,綱島康煕(やすてる)教授の英語の講義であって,彼は自信と情熱を持って,トーマス・ハーディの『妻を喜ばせるために』(1891)について教へ,文章の解釈だけでなく,この偉大作家の経歴と,『ダーバヴィル家のテス』を含む他の作品についても話して下さいました。この作品は高校の教科書に断片的に含まれてゐたサマセット・モームやロバート・ルイス・スティーブンソンなどの他の英語の小説と比較して,非常に難しかったことを覺へてゐます。綱島康煕教授の「トーマス・ハーディとメルストック合唱隊」と題する論文を最近見付けて懐かしく拜讀,ハーディの著作のみならず生涯についても書かれてゐて,60年遅れの復習をさせて頂きまた。
書いた方はわたしたちよりわずか二年先輩ですが、旧仮名遣いで旧漢字が混じっている文章ですから、意外な感じがします。
それはともかくわたしも当時全く同感でした。『妻を喜ばすために』はハーディの短篇作品中最も有名であり、傑作だと思いますから、それが収められている新潮文庫の短編集は現在なお書棚の奥深くにあります。
綱島教授が使用されたテキストには、他に『「憂鬱な軽騎兵』と『呪われた腕』の二篇が収められていたと記憶します。後年それらを含めて多くの短篇を、そして最終的には代表する長編『ダーバヴィル家のテス』も読みました。
また先年読んで感心したモームの代表作の一つ『お菓子とビール』は、無名時代のハーディと当時の妻が主人公のモデルとして取り上げられています。
本題に戻ると、『妻を喜ばすために』は短い作品ですし、大抵の公立図書館のハーディの短篇集のなかにあると思いますので、一読して名工大時代を思い出してみてはいかがでしょうか。(完)

マロニエの花の思い出、鈴木直久

コロナ禍のなか、徒然なるままに、好きなマロニエの花の思い出について書いてみようと思い立った。

マロニエは日本の固有種のトチノキに似ているから、セイヨウトチノキとも呼ばれる樹木である。バルカン半島からトルコにかけての森林地帯が、原産地とされている。フランス語でマロニエと呼ばれる語感が、非常に魅力的である。セイヨウトチノキでは話にならないだろう。わたしの場合、若いころの憧れのパリのシャンゼリゼ通りのマロニエ並木とイメージが結びついて、実際に見るよりも先に名前を記憶してしまった。

ただし、 過去に5月、6月および7月の三回パリを訪れたが、いずも開花期を過ぎていたから、花を見ることはできなかった。

パリのマロニエ(白) ネットからの転載

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パリのマロニエ(赤) ネットからの転載

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最初の外国旅行は、1976年(アメリカ独立200周年の年)5月のアメリカ出張であった。その時に五大湖の一つ、エリー湖畔の都市エリー市を訪れた。

レンタカーで偶々郊外の住宅街の見事な並木通りを走っているときに、上司がマロニエだと教えてくれた。しかし、開花期を過ぎていたために花を見ることができず残念な思いをした。

 

初めてマロニエの花を見たのはロンドン市内だった。1994年5月上旬にヨーロッパを旅行した。最初の宿泊地ロンドンに着いた翌朝、ホテルの近くを散歩したときその大木が白い花を付けていた。

しかし特別の感動はなかった。元々格別美しい花ではない。そのマロニエという語感と上向きに付いた白い花とドーム状の樹形とが、周囲の風景とがうまくマッチして、独特の魅力が生まれるのだと思う。

市内観光に出てバッキンガム宮殿の前で衛兵の交代を見物したとき、前の広場にアカバナマロニエ(ベニバナトチノキ)の大木が満開だった。しかし、赤いマロニエにはロマンが感じられない。やはり白い花がふさわしいという観念がそのときに定着した。

その旅行の後半に南ドイツに行き、ノイシュヴァンシュタイン城の麓の町フュッセンのホテルで昼食をしたが、ホテルの前に素晴らしい樹形をして、上向きに白い花が沢山咲いているマロニエの大木があった。それがこれまでに見た最も立派な開花しているマロニエである。

退職後最初に旅行した外国はカナダだった。思いがけないことにオンタリオ州議事堂の敷地に、白い花を付けたマロニエの大木が、何本か立っていたから、懐かしかった。同じ日に訪れたナイヤガラの滝の下流にあるナイヤガラ・オン・ザ・レイクという由緒ある街にも咲いていた。

2006年(モーツアルト生誕250周年)、中欧を旅行したとき、プラハ城とカレル橋の袂にマロニエが咲き誇っていたからうれしかった。

ウィーンではシェーンブルン宮殿の敷地内とその外側の並木道でアカバナマロニエの花が満開だった。

それが外国でのマロニエの見納めとなった。

ところで、この原稿を書くにあたって、マロニエについてネットで少し調べてみた。そして廣野 郁夫という人の、続・樹の散歩道という一連のブログのなかに、「170 銀座のマロニ通りのトチノキ仲間たちの樹幹がやや奇妙な外観となっている理由」(2014年10月)という奇妙な表題?の文章が見つかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

氏は徹底的に現地調査をしてその理由を明らかにしたばかりか、日本のマロニエの状況まで広く調査されており、感心した。ブログには著者として氏名を記されているだけだが、検索してみたら、(独)森林総合研究所林木育種センター 北海道育種場長であることが分かった。専門家なのである。

氏の調査結果は次のような結論になる。

日本固有のトチノキと、交雑種のベニバナトチノキ(セイヨウトチノキと米国南部原産のアカバナトチノキの種間雑種)の両方が、特に規則性はなく混植されていることを確認したということで、セイヨウトチノキ(本来のマロニエ)は植栽されていない(2014年8月)。

したがって、マロニエ通りという名称は厳密にいうと正しくない。

マロニエ通りは銀座二丁目交差点を東西に貫く通りである。わたしの最後の勤務地は銀座一丁目だったし、マロニエ通りがあることをすでに知っていたから、一度だけ歩いてみた。アカバナマロニエの花を見た記憶は残っているが、特に魅力のある通りではなかった。

ところで「マロニエの木陰」という古い歌謡曲がある。昭和時代前半の人気歌手松島歌子の最大のヒット曲だから、わたしと同世代の諸兄のなかにはご存じの方もあるだろう。作られたのは昭和12年だから、わたしが生まれる前である。

そんな昔に曲の歌詞を書いた坂口 淳は、日本にはほとんどなかったはずの何処のマロニエの木陰にいたのか、そして松島歌子は何処のマロニエをイメージしながらこの曲を歌い続けたのだろうと不思議に思うが、歌謡曲の世界でそれを詮索するのは野暮というものだろう。

詩の内容はともかくとして、和製タンゴのリズムが子気味良く、松島歌子の独特の声と節回しが魅力的な名曲である。

https://www.youtube.com/watch?v=9yWcaQJSFyc

マロニエについての追加情報:廣野 郁夫氏のブログからの情報

セイヨウトチノキは在来種のトチノキによく似て花色も同様であり、特に魅力となる個性があるわけでもないことから、実生苗が安く手に入るトチノキに代えて入手しにくいセイヨウトチノキを積極的に植栽する理由は一般にはないと考えられる。

結果として、セイヨウトチノキの植栽例は植物園や一部の公園などに限られていて、需要もほとんどないと思われ、苗木が販売されていることも確認できない。

普通の感覚では、よく似たトチノキとセイヨウトチノキを街路樹に混植することはあり得ない。

これに対して、ベニバナトチノキは紅色の花色がきれいで、トチノキと混植すれば二色の花色を楽しんでもらうことができる。

トチノキはふつう実生繁殖した苗が利用されるのに対して、ベニバナトチノキは国内ではトチノキの台木に接ぎ木して増殖した苗木が利用されている。接ぎ木としている理由は、日本の気候に適合した台木を利用した方が抵抗力があること、ベニバナトチノキの実生繁殖は一般的ではないことが理由となっているようであり、さらに少々高めの接ぎ木をすれば、育種期間を大幅に短縮することもできる。

セイヨウトチノキは日本のトチノキと外観が似た樹種であるが、花色もトチノキ風で、ベニバナトチノキのように花色の個性が特にないため、国内ではこれを積極的に利用する理由がなく、植栽例は極めて少ない。トチノキの街路樹が多くみられる北海道内でも、セイヨウトチノキの街路樹は岩見沢市に数本あるのみ(北海道立利業試験場)という。

筑波実験植物園には、トチノキ、セイヨウトチノキ、ベニバナトチノキの3種が植栽されていて、トチノキ以外はどちらも接ぎ木増殖されたものが植栽されている。

セイヨウトチノキは新宿御苑と日比谷公園にも植栽があるが、いずれも株立ち状に分岐した変則的なもので、実生か接ぎ木か判別できない。

残念ながら、氏は外国、特にパリの育種と植栽事情までは確認しておられない。

以上

石川啄木について、鈴木直久

(鈴木さんから頂いた添付ファイルは[「winmail.dat」だった。私のソフトでは開けなかった。あちこち探して原因はリッチテキスト形式で作成され、outlookというメールソフトで送付されるとこのようになるとあった。この場合、gmailに転送されると読めるとあった。幸い、私は予備のメールアドレスをgmailで持っていたので皆さんにご披露できました。    管理人)

昨日の井上さんのブログを読ませていただいて、学生時代に啄木を愛読したことを懐かしく思い出しました。
当時岩波書店から啄木全集(全17巻)が発行されて、少なくともその半数以上を購入し、歌集、詩集、短篇小説、評論およびローマ字日記などを読み漁りましたので、わたしなりの彼のイメージが形成されました。
歌集以外で特に強い印象を受けたのはローマ字日記でした。それは妻に読まれないように態々ローマ字で書いたものです。それだけに日々の行動と感情が赤裸々に記録されていますから、特異な日記文学として高く評価されています。
最も優れているのはもちろん短歌の分野であり、その天才であると認めない人は皆無でしょう。
しかし、人間としてはあまりにも欠陥が多く、人の迷惑を顧みないあきれるばかりの「たかり魔」であり、家族を養う生活力がまるでなく、影響を受けたり世話になったりした人たちを陰で罵倒するような独善的な男でしたから、その人格には好意の持ちようがありません。
その才能を愛するがゆえに一途に経済的に支援した、盛岡高等小学校で三年先輩だった金田一京助などは稀有な例でしょう。
そんなわけで、卒業して社会に出てから、彼に対する関心が急速に冷めたのだと思います。
それでも随分後になって、1991年(平成3年)10月下旬、社用で道東の別海町に滞在した帰途、釧路市で一泊しましたが、そのとき思い立って釧路駅から歩いて米町公園の啄木の歌碑を訪ねたくらいの関心は持続しました。
啄木が旧釧路新聞に勤務したのは、わずか3ヶ月足らずだったのに、今日調べてみると釧路には何と25もの多くの歌碑がありますが、それが最も古いものだそうです。
歌碑には次の作品が刻まれていました。
しらしらと氷かがやき
千鳥なく
釧路の海の冬の月かな
啄木としては名作とは言えないかもしれませんが、同行者はなく、しかも人気のない晩秋の夕方でしたから、啄木に対する郷愁とわが身の旅愁とをいささか感じさせられました。
所有した全集は会社に入ってからいつの間にか処分してしまいましたが、それでも第一巻の歌集だけは現在も残っています。
全く久しぶりに二重書棚の奥から取り出してみました。奥付を見ると昭和36年4月13日発行とあります。何と丁度60年前のものです。
それは最も有名な次の作品から始まっています。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて

蟹とたはむる

 

グリューネヴァルトの磔刑図、鈴木直久

(原稿で頂いたWORD文章中の写真がコピペでWordPressに取り込めず、写真を一度Word文章から別途画像出力して、この原稿に挿入する段階で、最初にある写真以降の文章をコピペ忘れして、読者の皆さんにご迷惑をおかけしました。   管理人)

私は音楽評論家として知られる吉田秀和のフアンであり、現役時代には公立図書館から全集などを借りてきて読んでいた。自宅の二重書棚には現在もなお氏の文庫本が二十数冊並んでいる。先日何気なくチェックして、通読した印のないものが数冊あることに気付いた。そこで終活の一環としてでは吉田さんに失礼かもしれないが、それらを通読することにした。

そして現在「音楽の旅・絵の旅」を読んでいる。それは1976年に行った3ヶ月のヨーロッパ旅行の旅日記の体裁をとって書かれている。氏は絵画にも造詣が深い。

 

そのなかに「グリューネヴァルト体験」という一文がある。わたしにもささやかな「グリューネヴァルト体験」があることを思い出したので、まずそれから書いてみたい。

 

1989年10月に、ワシントンDCにあるナショナル・ギャラリーを二日間訪れる機会に恵まれた。

しかし全く予期しないことだったので事前調査ができず、やむなく中世のイタリア美術から近代までの多くの絵画展示室を順番に巡った。

 

そのうちにキリストの磔刑図の前で足が止まった。小さな画面ながら、情け容赦なく無残に傷つけられたキリストが、執拗極まりなく写実的に描かれている。見るものに訴える力が尋常ではない。これほど痛ましい十字架上の死んだキリストの姿はないにちがいないと思った。そのようなキリストの磔刑図を見たのは後にも先にもその一度だけである。

小磔刑図(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)

画面に向かって右手に立つのは洗礼者ヨハネ、左手のそれは聖母マリア、そして地面に膝くのはマグダラのマリアである。

それを描いた画家がドイツのグリューネヴァルト(1465年頃-1528年)であることを帰国後に確認したが、今日その作品の大きさを調べてみて、わずか61.6×46㎝しかないことに改めて驚いた。もっと大きかったと記憶していたからである。作品の迫力がそうさせたとしか考えられない。

 

この作品は1420-1425年頃描かれたもので、バイエルンのヴィルヘルム公が愛蔵したと伝えられる。彼の作品は、わずか12点程度しか知られていないこと、ドイツ、フランスおよびスイス以外に所蔵されているのはアメリカのこの1点のみであることも今日ネットで調べて知った(グリューネヴァルトと芸術家列伝の二語を入力すると一覧表が表示される)。

 

ついでに付記すれば彼はより有名なデューラーと同じ 1628 年にペストのために死んだ。

 

さて吉田さんの文章に戻ることにする。

 

氏は旅行中ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルト(黒い森)の周辺に住む知人宅に暫く滞在し、その間に知人の車に同乗して国境を越え、アルザス地方の古い町コルマールに行って、ウンターリンデン美術館で、グリューネヴァルトが描いた「イーゼンハイムの祭壇画」を見た。「グリューネヴァルト体験」はそのことを意味する。

 

その祭壇画は彼の代表作であるから、画家の名前を知る人は100パーセントがこの作品を先ず思い浮かべるにちがいない。

それは観音開きで開くことができる三面の絵とそれらの下に袴のように取り付けられたブラデッラと呼ばれる絵一面で構成されている。そして現在は三面の絵が切り離されて横並びに展示されているから見学者はありがたい。

第一面の中央にキリストの磔刑図がある(次ページ)。

イーゼンハイムの祭壇画(第1面とブラデッラ)

 

吉田さんは全ての画面について詳細に紹介してくれているが、わたしの小文は磔刑図体験がテーマであるから、ここでは磔刑図が描かれている第一面だけを紹介することにしたい。他の二面の絵もネットで簡単に見ることができるから、興味のある方はご覧いただきたいと思う。

 

さて、第一面の中央の磔刑図の大きさは、265×304㎝だから上述の小磔刑図よりはるかに大きい。寸法が大きいのは礼拝堂の祭壇画として描かれたからであろう。

 

この祭壇画は小磔刑図よりも先に1511から1515年頃に描かれたとされる。わずか4,5年の差である。その間隔はわずかなものであるから両作品には寸法以外に際立った差はないように思われる。もっとも上に触れた作品リスト中のキリストはいずれも非常によく似ている。この画家にとってそれがキリストの絶対イメージなのであろう。

 

この祭壇画の磔刑図を小磔刑図と比較すると、後者にはない使徒ヨハネ(聖母マリアを支えている)と子羊が加わり、また洗礼者ヨハネの右手はキリストを指している。吉田さんはそれらの配置について主に構図の観点から解析しているが、小磔刑図と比較できるわたしの目には、制作の依頼者の希望によるものかもしれないが、祭壇の画面の方がはるかに大きいので、そのようにしないと間が持たないからだとも思えてくる。

それから小磔刑図の聖母マリアの着衣が暗いのに対して祭壇画の方は明るい白一色である。それは明らかに、画面にアクセントをもたらすとともに、聖母マリアを際立たせるために意図されたものであろう。

文章が尻切れトンボになって申し訳ないが、巨大なワシントン・ナショナルギャラリーの一隅でのささやかな体験が、フランス東部の見知らぬ由緒ある田舎町の、有名な祭壇画と結びついたことに満足している。

ロンドン・ナショナル・ギャラリー展の「ひまわり」について 、鈴木直久

11月17日に大阪国際美術館でこの展覧会を見ました。新型コロナの感染対策のために、入場日時を指定したチケットをあらかじめ購入するという珍しい方式でしたが、その代わり混雑が避けられて、ゆっくり見ることができました。61点の出展作品がすべて初来日です。

そのなかで格別に思い出深い、ゴッホの「ひまわり」について書いてみたいと思います。

古い話で恐縮ですが、1986年にこの美術館(RNG)を訪れることができました。というのは、ヨーロッパ出張旅行の最終日にロンドン駐在員事務所に顔を出すことにしていたのですが、当日の朝、駐在員からホテルに、急用のため大陸に出張しなければならないとキャンセルの電話が入りました。その結果1日の自由時間ができたので、美術館訪に行くことを思い付いたのです。

信じがたいようなことですが、(当時も現在も)入場無料であり、快適なレストランでランチを安く食べることができました。

ただし、事前調査をしていなかったので何も分からず、イタリアルネサンスの部屋から順番に見ながら進みました。するとある部屋に入るやいなや眩しいばかりの衝撃を受けたのです。それがゴッホの黄色の「ひまわり」から発するものでした。照明にも配慮が行き届いていたのでしょうし、また多くの絵画を眺め続けて疲れ気味だったから尚更でしょう。本当に驚きました。

しかも同じ構図でほとんど同じ大きさ(と思った)作品が2点あるではありませんか。それらは同じゴッホの他の1点の作品「糸杉のある麦畑(F615)」によって隔てられていましたが、それも似た大きさの立派な作品です。麦畑は刈り入れ間近の黄色で覆われていますから、3点ともに黄色を基調としています。今思うに、中央の「糸杉のある麦畑」の遠景の山と空だけに清々しい青色が塗られていて、黄色基調の3点の画面全体を引き締めています。実に魅力的な配置でした。

ご参考のため上記3点のコピーを添付します。ただし、残念ながら横に並べることができませんでしたし、縮尺を揃えることもできませんでした。2点の「ひまわり」の色調の違いは主として情報源が異なるためだと思います。

RNGの「ひまわり(F454)」

RNGの「糸杉のある麦畑(F615)」

SOMPO美術館の「ひまわり(F457)」

ところで2点の「ひまわり」ですが、この展覧会を特集した芸術新潮の今年の4月号には、この美術館のゴッホのコーナーの写真がありますが、左から右の順に、「ファン・ゴッホの椅子(F498)」、「サンポールの病院の庭の草地(F672)」、「ひまわり(F454)」の順に並んでいます。ですから、当時私が見たときも「ひまわり(F454)」は左側にあったのだろうと勝手に想像しています。

ただし、F672と有名なF498を見たという記憶が全くありません。「ひまわり」に余程気を取られていたからだろうと思います。

ところが、私が見た翌年の1987年に、当時の安田火災海上(現・損保ジャパン)が、個人が所蔵していたもう1点のほう(F457)をオークションで、53億円で落札して購入し、大きな話題となりました。

それは現在ではRNG所蔵品のゴッホ本人によるコピーであると断定されていますから,似ているのは当然です。

現在SOMPO美術館で常設展示されていますからご覧になった方は多いことでしょう。また、RNGが所蔵する作品をこの展覧会(東京か大阪)でご覧になった方もいらっしゃるでしょう。

今回の展覧会で「ひまわり」は最後の部屋にこれ1点のみが展示されています。日本で非常に人気が高い画家の代表作にふさわしい位置付けですが、RNGでも状況は同じようで、最も人気があるのはゴッホだと説明されていました。

私も東京勤務時代に前者を何度か見ましたし、今回後者を36年ぶりに見ることができて満足しています。

もしもSOMPO美術館の「ひまわり」が大阪に運ばれて並べて展示されていれば、両者を詳しく比較してそれらの違いと魅力を一層深く理解することができただろうと思いますが、他の作品を含めて全てが初出展だというこの展覧会の売りとRNGのプライドとが、それを許さなかったのではないかと思います。

以上

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、鈴木直久

今年1月13日に投稿しましたメンデルゾーンのヴァイオリン協奏曲を聴き直そうとして添付ししたたURLをクリックしましたら、「動画を再生できません」と表示されました。

しかし、検索し直しますとyoutubeには存在し再生できました。

原因はわたしには理解できませんが、この演奏は素晴らしいものですから、繰り返し再生しようとする人が現れるかもしれません。そこで、投稿原稿に添付したURLを再生できることを今日確認したURLと置き替えていただけないでしょうか。

ただし、急ぐことでは全くありませんので、ついでのときで結構です。

お手数おかけし恐縮ですがよろしくお願いします。

 

 

鈴木直久