名工大 D38 同窓会

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ゲーテの「ファウスト」について、鈴木直久

ゲーテの「ファウスト」について、鈴木直久

わたしたちの年齢になると読書の対象に優先順位を付けざるをえない。特にページ数が多い本についてはそれが必須であると思う。

昨年7月にプルーストの「失われた時を求めて」を読み始めて、この4月に読了した。次にジョイスの「ユリシーズ」を読むつもりであったが、新型コロナウイルスの影響で市立図書館が休館したので借りることができなくなった。

 

そこで書棚の「ファウスト」を読むことにした。退職に際して本の大半を処分したが、ファウスト(高橋義孝訳新潮文庫、1968年発行)は残しておいたのである。(一)を読んだが(二)については途中で断念したままだったからである。

 

改めて(一)(第一部)から始めたが、(二)(第二部)に入ってやはり壁にぶつかってしまった。何が書かれているのかほとんど理解できないのである。第二幕は特にひどかった。それでもこれが最後の機会だと思って、活字を追うようにして一応読了した。クライマックスにおける有名なファウストのセリフ「とまれ、お前はいかにも美しい」は呆気なく、全く感動しなかった。

 

当然欲求不満が残った。

 

第一部は1806年に完成されたものであるのに対して、第二部は死の前年(1831年)に完成された。また、第一部は290ページであるのに対して、第二部は五幕構成で452ページもある。だから、「ファウスト」の核心は第二部にあるとされている。それがちんぷんかんぷんでは読んだことにならない。

 

それで新潮文庫の訳者の解説を読み直してみると、「第二部は、人間のさまざまな思念や欲望が絡みあって、いくつもの層をなしている立体的世界を貫いて上昇するところの、彼(ファウスト)の精神のひたすらなる登高を、それぞれの段階で、彼に作用する諸現象を客観的に描くことを通じて、表現しようとしている。従ってそれらの現象は、客観的事実であると同時に、あるいは比喩として、あるいは象徴として、主人公の精神の状況を写し出していることになる。」と書かれている。非常に抽象的な説明であり、ゲーテの思想がファウストの言動を通じて具体的にどのように表現されているか、それは成功したのか、あるいは詩劇としての魅力はどこにあるのかという、読者が最も知りたいことについて一切説明されない。

 

そこで岩波文庫(1958年)の解説を読んでみた。訳者の相良守峯は、第二部の構想のなかで次のように書いている。

「第二部は第一部ほど話の筋道が単純明瞭でない。否、この第二部の世界に足を踏み入れた読者は、さながら南国の植物が繁茂している中に錯綜する小道を辿る人のごとく、見通しのきかぬ迷路に踏み迷う心地がするであろう。」

わたしはまさにそのような心地がした。

 

さらに、「第一部を読んだ読者は必ずこの第二部をも読みとおさなければならない。第一部は断篇であって、これだけではゲーテが意図し、八十三歳にして完成したこの雄大な構想、もしくは彼が一生をかけて創造した有機的な「生」というものを究めずして終わることになるからである。ゲーテ自身第二部については「生涯の終わりにおいて、落ち着いた精神には、従前には考えられなかったような思想が現れてくる。」といって満足していた。」と書いている。

しかし、一生をかけて創造した有機的な「生」と従前には考えられなかったような思想がどのようなものであるかを訳者は具体的に説明しないし、わたしは理解できなかった。だからその「雄大な構想」も、「有機的な「生」も究めずして終わりそうである。

 

最も新しい集英社版(2000年)の訳者池内紀は、その解説のなかで次のように書いている。

「意味を解きあぐねているのは一般の読者だけではないようだ。ゲーテ学者達も又そうであって、夥しい『ファウスト』注解書は、第二部に至ると決まって原文以上に難解になり錯綜していく。」

これでは全く話にならない。意味を解きあぐねているのは池内さんも同じだと言いたくもなる。

 

文芸評論家の河上徹太郎は、1971年に発行された「西欧暮色」(河出書房新社)のなかの「ファウスト対ベートーヴェン」に次のように書いているという。

『一体この『第二部』とは何ものか? 怪力乱神の限りを尽くして倦むことがない。人間精神の限度、欲望の限りが完璧に描かれている。そこから連想して私は、これは文学のジャンルとしては、今日はやっている「漫画」の如きものじゃないかと思った』

精神の限度、欲望の限りが完璧に描かれているとわたしには思えないし、漫画のようなものだとは流石に言いすぎであろうが、硬骨漢の氏の感想であるから説得力を感じる。

 

「ファウスト」の文学作品としての最大の魅力は、むしろこの大規模な戯曲を韻文で表現したことにあるのだろうとわたしは推察しているが、残念ながらドイツ語だから全く手に負えない。

 

このような次第で、あまりにも有名な「ファウスト」の精髄が、少なくともわが国でほとんどまともに理解されていないようであることに気付いたので、敢えて一文をものしてみた。なんだ、そんなことをわざわざ書いたのかと思われた方には申し訳なく思う。

 

諸兄のなかに「ファウスト」を読まれた方がおられるなら、是非御所見をお伺いしたい。

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