名工大 D38 同窓会

名工大 D38 同窓会のホームページは、卒業後50年目の同窓会を記念して作成しました。

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前田・宮口・三山
藤田嗣治の戦争画   鈴木直久

藤田嗣治の戦争画   鈴木直久

  127日に京都国立近代美術館で、「没後50年藤田嗣治展」を見た。2006年の生誕120年展も同じ場所で見た。また彼の作品は国内の多くの美術館に所蔵されているので機会を捉えては見てきた。今回は生きている間見る最後の展覧会になるだろうから、丁寧に見て作品の魅力を確認するよう努めた。

「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節全うする」という戦争画が今回も含まれていて、それらの悲惨な場面の克明な描写はやはり強烈だった。前回の展覧会ではそれらを含む四点が展示された。

 そして藤田はどのような意図と姿勢でそれらの戦争画を描いたのだろうかと気になったので、少し調べてみた。

周知のように、太平洋戦争中に陸海軍の委嘱により、多くの画家たちによって戦争画(公式には作戦記録画)が多く描かれた。戦意高揚のためのプロパガンダに利用することが目的だった。敗戦によりその多くがGHQによって接収されたが、153点が無期限貸与という異例の形式で返還され、東京国立近代美術館(MOMAT)に保管されている。

 

藤田の作品は次の14点である。それらの一部は、時に応じてMOMATで公開されたが、彼の全所蔵作品展示(2015919日‐1213日)のなかで、おそらく初めて一括して公開された。それらはブログArt & Bell of Toraにカラー写真付きで紹介されている。また本年8月に発行された清水敏男著藤田嗣治作品集には8点が紹介されている。

○印の5点(ただし、「血戦ガダルカナル」は京都展には出展されなかった)が前回(2006年)の、そして「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節を全うす」の2点は今回の展覧会にも出展された。

 

1     南昌飛行場の焼打 1938-39

戦闘の場面を描いた最初の作品。

2 武漢進撃 1938-40

3 哈爾哈(はるは)河畔之戦闘 1941

これはノモンハン事件の画であり、藤田が戦争画にのめりこむきっかけとなった有名な作品であるという。

4.十二月八日の真珠湾 1942

⑤ シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)  1942

6 ソロモン海域に於ける米兵の末路 1943

⑦ アッツ島玉砕 1943

「全滅」に対して「玉砕」という美化した言葉が使われたのは、この時が最初だという。

8 ○○部隊の死闘ニューギニア戦線 1943 

玉砕した山田部隊の戦闘を描いたこの絵は、検閲のため「○○部隊」に名前を変えられた。

⑨ 血戦ガダルカナル 1944

⑩ 神兵の救出到る  1944

11 ブキテマの夜戦 1944

12 大垣部隊の奮戦 1944

13 薫(かおる)空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す 1945

  台湾の原住民(当時は高砂族と呼ばれた)が日本兵(高砂兵)となっていたことでも有名であるという。

⑭ サイパン島同胞臣節を全うす 1945

  民間人の犠牲を描いた最後の戦争画である。

 

「アッツ島玉砕」は大画面(193.5×259.5㎝)による彼の群像表現の到達点であり、またMOMATが所蔵する戦争画153点中の最高傑作であるとされている。藤田自身が「会心の作だった」と述懐している。それを少なくとも3回見たと記憶するが、その迫力と凄惨さを忘れることができない。

「サイパン島同胞臣節を全うす」は、民間人の死者だけでも1万人近くだったと推測されている、あまりにも有名な玉砕の場面を描いている。天皇夫妻は終戦60年(20156月)年にこの場所を訪れて慰霊されたが、それ以前にこの絵をご覧になったにちがいないと思う。しかし、その画題には違和感を強く覚えられたことだろう。

 

ところで、藤田はどのような意図で戦争画を描いたのであろうか。自身はそれについて詳しく説明していないようである。昭和13年(1938年)にいち早く嘱託として海軍に採用されて「南昌飛行場の焼討」を描いて以来、陸軍と海軍の要請を受けて戦争画を描き続けたのだから、戦争のプロパガンダに利用するという軍の意図に積極的に応える活動だったされても仕方がないだろう。最後のサイパン島の悲劇の画題にさえそれは表れている。

描いた戦争画の数は150点に上るという研究もあるそうだから、文字通りのめり込んだのだった。戦況が次第に不利になるにつれて日本軍が殺戮される戦いが、したがってそれが描かれた作品も増したから、目的とする戦意高揚効果には繋がらなくなったと思う。しかし、彼は悲惨な局面を執拗に描き続けた。何故だろうか。革新的な表現を求め続けてきた彼の芸術家精神が、戦争画という新しいジャンルで究極の表現を目指したからではなかったろうか。軍に協力したとはいえ、真の意図は歴史画としての戦争画の実現を目指したのだと思う。そしてそれは十分に達成されている。

「藤田嗣治作品集」(2018年)の著者清水敏男は同書で、「「アッツ島玉砕」や「「サイパン島同胞臣節を全うす」は、ダイナミックな絵画表現によって悲惨な戦争による人間の生死を画き出すことに成功し、単なる記録画の域を超えたものとなった」と書いている。

 しかし、戦争画の作成に参加した高名な画家は多数に上ったにもかかわらず、戦後になると、おそらく最も華々しく活動した彼に非難が集中し、スケープゴートにされてしまった。彼は芸術家としてそれを受容することができなかった。それは仕方がないとしても、あの戦争で多大の犠牲を払った多くの同胞の心情を十分に理解したとは言えないだろうと思う。

そのような状況に疲れた彼は、1949年(昭和24年)に日本を脱出してフランスに戻り、そこに帰化して二度と日本の土を踏まなかった。

 

なお、藤田以外の戦争画の傑作は他にも多くある。小磯良平の「娘子関を征く」(1941)、宮本三郎の「山下、パーシバル両司令官会見図」(1942)および向井潤吉のGHQに接収されなかった作品「影(中国・蘇州上空にて)」(1938)(福富太郎コレクション)などが記憶に残る。                                 

以上                                2018.12.15   鈴木直久記

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コメント

  • 井上和延 より:

    藤田嗣治の絵の件よくわかりました。戦時の画家はほぼ皆
    このような経験をし、のんびり絵を描くことなど国賊だったのでしょうね。私も幼稚園児でしたが 描かされた絵はみな戦車、軍艦 飛行機でした。さらにサイパン ニューギニア 
    ボルネオ 等の名前何処か等わからずでしたが名前だけは
    祖父からおそわってました。さらに兵隊さんになりたくてしかたなしでした。もちろん予科練に入り7つボタン。
    京都美術館へゆきたくなりました、昔を思い起こさせてくれ有難う。鈴木さんだから 李白の詩の終わりの個所下記します。
     (士卒草莽にまみれ、将軍空しくしかと為す、乃ち知る兵は是凶器なりと・・)

    • 鈴木直久 より:

      井上和延 様

      コメントしていただきありがとうございました。
      ぼくの父は出征しませんでしたが、貴兄のご指摘により、親に連れられて出征する兵士の壮行行事に参加したこと、村の祭りの縁日で喜捨を求める旧傷病兵、旧海軍の制服で授業する中学校の先生、および工場で戦争体験を語る年配社員などの姿を思い出しました。

      引用された李白の詩を思い出せなかったので、詩集を取り出して「戦城南」であることを確認しました。内容は藤田の戦争画を彷彿させます。その詩を思い浮かべる貴兄の漢詩の造詣の深さに改めて感服しました。 12月17日 鈴木直久

  • 宮口 守弘 より:

    鈴木さん
     
     ガルッピに引き続き、鈴木さんの色々な視点の広さを興味深く感じました。残り少ない限られた時間を上手く活用しながらさらなる教養を高める姿勢には感服です。今回も参考になりました。
     藤田嗣治についてはフランスでの活動の作品には興味があり特に指の描写に独特の面白さを感じていました。
     戦争画も日曜美術館他の解説などで見たりして丸木夫妻の原爆の図等の生々しい無残な姿を描いた絵とラップさせながら見ていました。
     鈴木さんの解説の様に反戦の意図はないという説明にも納得しています。過去の戦い等の西洋の絵画に挑戦したという説もありますがなんとなく判ります。
     絵画は見る人とがどう受け止め、人その絵から何を想像する
    か、想像できるかが重要な一部のような気がします。

                2018.12.16 宮口守弘

    • 鈴木直久 より:

      宮口守弘 様
      今回もコメントしていただきありがとうございました。
      貴兄のご見解に全く同感です。 12月17日 鈴木直久

  • 前田和男 より:

    鈴木さん

    私は、東京の近代美術館で、10年以上も前だと思うが、藤田嗣治氏の個展を観ました。その時、戦争画と一緒に、彼のパリ時代の絵画、また、故郷の残した壁画等もあったが、この戦争画のリアルさにびっくりしました。海外でも大概の美術館に為政者の権威を誇張する戦争画必ずあるが藤田の戦争画は悲惨な戦争場面も多々あり彼はこの戦争画の為に戦後日本を離れた、捨てたと言われていますが悲惨な場面を描いたのを見ると、逆に反戦的な意味も込められているのではないかと当時思ったように記憶しています。
                      前田和男

    • 鈴木直久 より:

      前田和男様
      早速コメントいただきありがとうございました。大変光栄です。
      貴兄がご覧になったのは「生誕120年藤田嗣治展」(2006年3月28日-5月21日)だったと思います。ブログに紹介しましたように、同展では彼の戦争画から選び抜かれた5点が展示されましたから、印象は今回よりも強烈だったにちがいありません。
      彼自身は反戦意識までは持たなかったと思いますが、敗戦から遠ざかるにしたがって、見る人に反戦を強く感じさせるようになったのではないでしょうか。それが彼の芸術の高さを証明していると思います。 12月16日 鈴木直久