名工大 D38 同窓会

名工大 D38 同窓会のホームページは、卒業後50年目の同窓会を記念して作成しました。

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前田・宮口・三山
明治時代に東欧の貴族に嫁いだ町娘

明治時代に東欧の貴族に嫁いだ町娘

皆さんの中でも、昨年来NHKで放映されたイギリスのドラマ「ダウントンアビー」をご覧になった方もおられると思います。私は、滅多にNHKは見ないのですが、このイギリスの20世紀初めの貴族の家族物語にはまり3-5シリーズを一部ビデオを借りて見ました。

退職後、何度もウィーンを訪れたが、案内書でウィーンに「光子の部屋」というのがあること、明治時代に東欧した日本女性が住んでいた家というぐらいにしか覚えていませんでした。最近、愛読している「選択」に彼女のことが紹介されていました。それに触発されて、浦安図書館にある下記3冊を借りて読みました。

要約すると

1)小学校卒の商家の娘が、行儀見習いを兼ねて料亭に働いていた。そこからハンガリー・オーストリア大使館に派遣されてお手伝いをしていた。

2)新しく公使として派遣された青年貴族が一目ぼれをして、短期間で結婚にこぎついた。しかし、身分の違い(卑属結婚と言うらしい)で青年の親、親類から承認を得られず、日本へは、国籍上、正式の結婚届とはならず、2人の子供も私生児として届けられていた。しかし、帰任にあたり(20歳)、青年の努力で正式に貴族の嫁となり、明治天皇に拝謁して帰国となった。

3)主人とは15歳違い。帰国後5人の子供が出来て、合計7人の子供を育てていた。しかし、30歳ぐらいの時に主人が亡くなり、以降、子育てと貴族の館、城を含めての管理責任者ともなり、苦労した話。ここで、事情は上記ドラマでの貴族社会の苦労話が重なる。

4)7人の子供を育てるのも大変だが、明治時代の小学校の教育だけの女性が、ドイツ語、英語、フランス語のが常識の貴族社会での苦労話はあまり、書き物で残さなかったようである。ただ、子供は親の影響だけでなく、周囲の仲間たちの中でも育つようで2番目の息子が、EUというヨーロッパ統一の先駆けを築いた一人で光子は、その母親として、ヨーロッパでは認知されているようである。

光子が子供たちに父親を偲んでの手記(日本からヨーロッパまでの帰任旅行が中心)

光子の子供たちの手記を基に光子像を描いたもの

光子の時代の写真を中心に光子像を描いたもの

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