名工大 D38 同窓会

名工大 D38 同窓会のホームページは、卒業後50年目の同窓会を記念して作成しました。

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前田・宮口・三山
石川啄木について、鈴木直久

石川啄木について、鈴木直久

(鈴木さんから頂いた添付ファイルは[「winmail.dat」だった。私のソフトでは開けなかった。あちこち探して原因はリッチテキスト形式で作成され、outlookというメールソフトで送付されるとこのようになるとあった。この場合、gmailに転送されると読めるとあった。幸い、私は予備のメールアドレスをgmailで持っていたので皆さんにご披露できました。    管理人)

昨日の井上さんのブログを読ませていただいて、学生時代に啄木を愛読したことを懐かしく思い出しました。
当時岩波書店から啄木全集(全17巻)が発行されて、少なくともその半数以上を購入し、歌集、詩集、短篇小説、評論およびローマ字日記などを読み漁りましたので、わたしなりの彼のイメージが形成されました。
歌集以外で特に強い印象を受けたのはローマ字日記でした。それは妻に読まれないように態々ローマ字で書いたものです。それだけに日々の行動と感情が赤裸々に記録されていますから、特異な日記文学として高く評価されています。
最も優れているのはもちろん短歌の分野であり、その天才であると認めない人は皆無でしょう。
しかし、人間としてはあまりにも欠陥が多く、人の迷惑を顧みないあきれるばかりの「たかり魔」であり、家族を養う生活力がまるでなく、影響を受けたり世話になったりした人たちを陰で罵倒するような独善的な男でしたから、その人格には好意の持ちようがありません。
その才能を愛するがゆえに一途に経済的に支援した、盛岡高等小学校で三年先輩だった金田一京助などは稀有な例でしょう。
そんなわけで、卒業して社会に出てから、彼に対する関心が急速に冷めたのだと思います。
それでも随分後になって、1991年(平成3年)10月下旬、社用で道東の別海町に滞在した帰途、釧路市で一泊しましたが、そのとき思い立って釧路駅から歩いて米町公園の啄木の歌碑を訪ねたくらいの関心は持続しました。
啄木が旧釧路新聞に勤務したのは、わずか3ヶ月足らずだったのに、今日調べてみると釧路には何と25もの多くの歌碑がありますが、それが最も古いものだそうです。
歌碑には次の作品が刻まれていました。
しらしらと氷かがやき
千鳥なく
釧路の海の冬の月かな
啄木としては名作とは言えないかもしれませんが、同行者はなく、しかも人気のない晩秋の夕方でしたから、啄木に対する郷愁とわが身の旅愁とをいささか感じさせられました。
所有した全集は会社に入ってからいつの間にか処分してしまいましたが、それでも第一巻の歌集だけは現在も残っています。
全く久しぶりに二重書棚の奥から取り出してみました。奥付を見ると昭和36年4月13日発行とあります。何と丁度60年前のものです。
それは最も有名な次の作品から始まっています。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて

蟹とたはむる

 

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コメント

  • 井上和 より:

    コメント有難う。 私も啄木の人間性はでたらめで好きになれず。小さいころから我が家の掛け軸等に詩があり必然的に覚えそれがきっかけ、詩になじんで好きになった次第。 歌の碑も全国に120余りあり沖縄にもあり。啄木フアンはどこにもいるのですね。わが会社にも国際?啄木会なるものにはいいってる人いたそうです。釧路へ行かれ啄木の歌に出会った事よく理解できました。私は函館と、渋民へは2度ほど往きましたが特に好摩の公園は実にいい、田舎らしく、また盛岡は都会的でしゃれた町 東北のチベットではなし。
    この本のなかにも何故日記をローマ字で書いたのか啄木の内なる醜さを吐露したのか作者なりの洞察もありました。
    それにしても全集17巻すごいです。我々皆安サラリーの時代によく思い切って買ったですね、尊敬に値します。
     また啄木の話聞かせてください。 (PS)以前のHPでの
    涼州詩の作者は王翰です。 私のミス。