名工大 D38 同窓会

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悠久のシルクロード:西安・敦煌・トルファン・ウルムチを巡る8日間の旅行記

悠久のシルクロード:西安・敦煌・トルファン・ウルムチを巡る8日間の旅行記

(注:写真は、山本さんがA-4ページに印刷した物を本稿ではスキャナーでJPGファイルに取り入れたものです。 管理人)

山本 雅晴 (2019-11-6 記)

1.目的:40~50年前から本(井上 靖など)や平山 郁夫の絵画、NHKのTV番組(1980年に放映、この8月に全篇再放送)で一度は行ってみたいと思っていた。80歳を前にして意を決してJTBの格安ツアーに参加した。参加者は60代後半から70代末で小生は上から2番目の年長者だった。主な見どころは、西安:城壁・大雁塔・兵馬俑坑博物館・シルクロード起点群像 敦煌:莫高窟・鳴沙山/月牙泉・西千仏洞・陽関・白馬塔 トルファン:高昌故城・アスターナ古墳・ベゼクリク千仏洞・火炎山・蘇公塔・カレーズ(地下水路)

2.行程と交通手段:羽田 ⇒ 上海(虹橋空港)⇒ 西安(2泊) ⇒ 敦煌(2泊) →(バス;2hr) 柳園 →(高速鉄道;3.5hr) トルファン(1泊) →(バス;3hr) ウルムチ(1泊) ⇒ 蘭州 ⇒ 上海(浦東空港) (1泊) ⇒ 羽田。( ⇒ は飛行機)。

10月20日(日)~27日(日)の8日間、西安・上海は薄曇り、他は快晴で内陸部では朝晩は冷え込み零下の日もあったが、日中は陽光が降り注ぎ暖かく全般としては快適な旅だった。

3.所感:

空港・鉄道駅・観光場所・ホテルでのセキュリティ・チェックが厳しく、時間を要し不愉快な面が多々あったが今の情勢を考えるとしょうがないかな! 格安のツアーなのでホテルのレベル、食事の質が心配されたがいずれも良好であった。

 

第一日目:10月20日(日) 晴れ / 曇り、歩行距離:6.6km。

羽田13:30~上海(虹橋)15:55//20:25~西安空港23:00 ホテル着0:20 。安いツアーのため上海での乗り継ぎの待ち時間が長く西安着が遅くなった。

 

第二日目:10月21日(月) 曇りのち晴れ、歩行距離:8.4km。 ① 西安のホテル8:00→郊外の世界遺産「兵馬俑坑博物館」9:20~11:40。標高が1200mの西安はやや冷え込み霧が立ち込めていた。中国でも有数の入場者数を誇るため混雑が甚だしいとのこと。ベテランの現地ガイドが要領よく案内してくれたためスムースに入場。迫力あるパノラマ・ビジョンで兵馬俑坑の成り立ち・発見・現状の説明を聞いたのち1/2/3号館と復元された銅車馬館を現地ガイドの説明を聞きながら約2時間駆け巡った。途中小生も含めて3人が迷子になったが事なきを得た。広大な敷地に膨大な設備を作り世界中からの観光客が訪れていた。一見に値するが二度見たいとは思わない!しかし、秦の始皇帝が一代でこれだけのことを成し遂げた点にはただ驚くばかりである。

② 世界遺産「秦の始皇帝陵」兵馬俑坑からほど近いところにあったが、陵のある丘と表示盤のみであり、2~3枚写真に収めて終わり。

③ 西安の旧市街:「大雁塔」(慈恩寺) 唐の時代にかの有名な玄奘三蔵が持ち帰ったサンスクリット語の経典や仏像を保管するため、唐の3代皇帝高宗により652年に建てられた。唐末の戦乱で大雁塔だけになっていたが、ここ30~40年の間で山門・鐘楼・大殿などの建物附属設備が遺跡公園として整備された。憩いの場・観光地として賑わっていた。残念ながら64mの大雁塔の上に登って西安市街を一望することはできなかった。また、塔の南側の入口にあるという、唐代の名書家褚遂良(ちょ・すいりょう) の「雁塔聖教序」の石碑に気が付かず帰国後女房に叱られた。この拓本は王義之の正統を受け継ぐ楷書の手本として書道の教本となっているとのこと。

西安城壁の「西の城門」(安定門)から登った。現存する城壁は明の時代(1370~1378)にレンガを積み築かれた。東西に長く周囲は14km、高さ12m、上部の幅12~14mでレンタルサイクルや電動カートで回れる。しかし、唐の時代の城壁内の面積は現存の9倍もあったらしい。西門は西方のシルクロードを臨む城門とのことであるが、夕暮れであまり見通しが良くなく、遠くまでは見えなかった。しかし門の内側の桝形は広大で日本の城壁の比ではない。時間があれば天気の良い日に半日かけて一回りしてみたい。城壁の上周辺と主な建造物は落ち着いた色合いでライトアップされており千年に及ぶ古都の品格を保っていた。

「絲綢之路起点群像」観光用に近年造られたものと思われるがツアーの出発点として見学。

以上はツアーで慌ただしく回った西安と近郊のほんの一部の見聞録である。西安は中国という大国の千年の都があったところであり、近郊も含めて幾多の見どころがあると思われる! 陝西歴史博物館も見られなかったのは残念でした。

 

第三日目:10月22日(火) 曇り/ 晴、歩行距離:6km。ホテル出発 8:00 → 工芸品見学・購入 → 西安空港 12:10 ⇒ 敦煌 14:35 → 敦煌市内観光 → 夕食後ホテルヘ 20:10 →OP観光世界的にも有名な舞踊と音楽を組み合わせたショーだが、疲れと明日の観光のため断念。

「鳴沙山」と 「月牙泉」・・・電動カートで往復。靴に砂が入らないように靴の上から布製のカバーを有料で借りた。「鳴沙山」は標高差はが高々50~60mであるが、ナイロン製の靴カバーが滑ることと、望遠レンズ付きの一眼レフが意外に重く結構難儀した。いずれも年輩の面々ここまで来て登れなかったらメンツが立たないとばかりに全員が登頂。夕暮れの澄み渡った景色を眺め暫し感慨に耽った。しかしながら鳴沙山からの月牙泉は光線の加減か青くはなかった。 また、平山郁夫が1979年に初めて敦煌を訪れ、1985年に完成した四曲一双の屏風絵「鳴沙山から莫高窟」を描いた写生地点は残念ながら確認できなかった。「月牙泉」の方に降りていき一周しようとしたが通行止めになっていてダメだった。人が多く通ると砂が泉に入り埋まってしまうからと思われる。昔の録画を見ると月牙泉の縁をラクダに乗って行き来する場面があった。砂漠の中でこの泉が何千年もの間枯れずに湧き続けることは奇跡である。

 

第四日目:10月23日(水) 快晴、歩行距離:10km。今日はこのツアーのハイライトである。

朝は冷え込み外の気温は氷点下、しかし快晴で見学には申し分ない。ホテル出発は7:50。

「莫高窟」:近くのバーチャル博物館でティーチ・イン(莫高窟の成立ち・保存状況・主な窟の紹介: 20分x2種) → 専用バスで莫高窟へ移動 → 現地の日本語が堪能な研究員に誘導され説明を聞きながら見学。見学場所:29、331,17,328,292窟 + 特別室57窟。それぞれに興味深い説明を聞き、なるほどと思ったが、各場面の印象は残っているが説明はできない。

窟内は写真撮影は不可で、もう一度ビデオなどで復習しないとダメ!しかし莫高窟とその周辺のイメージを十分味わうことができ、長年の夢が実現できた満足感がある。莫高窟の周辺からの写真にも思い出としてとどめることができた。

「西千仏洞」:莫高窟を見学すれば十分だと思われるがここもなぜかツアー・ルートに入っていた。ここを訪れるグループは我々だけだった。現存する石窟は19ケ所で莫高窟と同系列の様式で北魏と唐の時代の壁画が残っているが、保存状態は良くなかった。近くを流れる川の氾濫などの影響らしい。木が茂り静かでよいオアシスであった。

「陽関」:盛唐の有名な詩人王維(701~761)が西安の近くで西方に赴任する友人を送る詩と小生は理解している。現在の陽関には当時のものとして「のろし台」しか残っていないが、観光用にいろいろな古の施設を模して造作している。王維の像と柳まで植えるという凝りようである。それにはめられて写真を撮る!

「沙州市場」・「敦煌市街ライトアップ」:1980年頃NHKがシルクロードを取材して放映したころの人口は3万5千人であったが現在は20万人、観光で賑わう、かなり裕福で、清潔で治安のよい街のようである。夕食は何故か日本人のシェフに指導を受け敦煌で日本料理店をやっているところで上海から直送のさんまや茶碗蒸し・ほうれん草のおしたしなどであった。夕食後近くの「沙州市場」やホテルから1.5kmくらいの党河の周辺のライトアップも一人で散策した。

 

第五日目:10月24日(木) 晴、歩行距離:3km。ホテル出発9:30 → 敦煌近郊の「白馬塔」見学。塔は高さ12mの白亜の仏塔。4世紀末、亀茲の高僧・鳩摩羅什(くまらじゅう)の経典を担がらせていた白馬が死んだため篤信の敦煌の人々が馬をここに埋め塔を建てた。周辺のポプラや柳が黄葉して晩秋の趣を漂わせていた。「夜光杯」の工芸品製造・販売所に立ち寄った後高速鉄道に乗車するため、敦煌から130kmの柳園駅に向かった。

空港並みの厳しいセキュリティ・チェックを受け、柳園発 15:30 ~ トルファン着18:45 でトルファン来た。ホテルの出入りにもセキュリティ・チェックがあった。メディアで取りざたされているように新疆ウイグル地区はチェックが厳しい。

夕食にトルファン・赤ワイン“Lou Lan”を飲んだ。渋味が少なくほんのりと甘みのあるまろやかな味であった。干し葡萄から作るワインかと勝手に判断したが?

 

第六日目:10月25日(金) 快晴、歩行距離 6.6km。今日が事実上の最後の観光である。ホテル出発 8:45 → 2014年に“シルクロード:長安=天山回廊の交易網”の一環として世界文化遺産に登録された「高昌故城」は玄奘がインドに仏典を求めて向かう途中、ここで高昌国の王、麹文泰に好待遇され2か月ほど滞在して説法を行ったことでも知られている。このことを題材に平山郁夫は1979年、2000年、2007年に仏教伝来の聖地として絵画を描いている。面積200万㎢、周囲約5kmに及ぶが平山郁夫の描いた場所が確認できた。

「アスターナ古墳群」高昌国住民と唐代西洲住民の墓地群で大量の絹製品、陶器、文書など出土しており、壁画やミイラが残る。最古のものは273年、最も新しいものは778年。見学できる2基を見学した。

「ベゼクリク千仏洞」石窟の開削は6~9世紀中期。83窟でイスラム教の浸透により破壊され、また外国の探検隊により剥ぎ取られたものも多い。日本の大谷探検隊も明治末にここを訪れている。平山郁夫は1979年にここを訪れ絵画作品にしている。

「火炎山」トルファン盆地の中央部に横たわる東西約100km、南北10km、平均海抜500mの山地。地殻の褶曲運動により襞の入った山肌は地表に立ち上がる陽炎によって燃えているように見え、火炎山と呼ばれるようになった。西遊記にも登場する。トルファンは札幌とほぼ同じ緯度にあるが中国で一番暑く、7~8月は45℃を超える日もあり、今までの最高温度は50℃くらい。

「蘇公塔」(そこうとう) 1779年に建立された新疆イスラム建築様式を代表する塔。高さ44mの円柱形で横にモスクがある。モスク内部は木造で簡素な造りであった。

「カレーズ(地下水路)」、「カレーズ楽園」という名称で、カレーズを見学できる博物館のような施設。カレーズを縦横に廻らすことにより、農業、牧畜、生活に必要な水を確保できる。

「干しぶどう」の効率的生産

トルファンは年間降雨量が20mm以下、年間蒸発量が300mmという乾燥地帯である。また、トルファン盆地は世界でも有数の低地で標高マイナス154mのところもある。

日照時間が長く、昼夜の寒暖差が大きく糖度の高いぶどうやアンズなどの果物がとれる。

産業は農業が中心で特産品にはぶどう、ハミウリ、綿花などがある。中でもぶどうは世界一の生産量を誇る。中国のぶどうの生産量は1300万トンで世界第2位のイタリアの1.5倍である。

ぶどうのうち、ワインにする量はイタリアやフランスの1/4で、殆どが干しぶどうに加工される。

干しぶどうは「涼房」といわれる格子状の隙間のある小屋の中で棚状に密に吊るして3~4週間自然乾燥して加工する。非常に省エネで高品質の干しぶどうを低コストで製造できるようである。

 

敦煌から柳園へ向かう途中のバスの車窓や柳園からトルファンに行く高速鉄道からの沿線でも風力発電用のファン付鉄塔が数百~数千の単位で観察された。不確かな情報だが高速鉄道用の電力を風力発電で賄っていると聞いたことがある。日本国土の4倍以上もある新彊ウィグル自治区では豊富な石油や天然ガスの発掘を進めると同時に、広大な砂漠の中で再生可能な自然エネルギーを活用するための膨大な実験が進められているように感じられた。

 

第七日目:10月26日(土) 快晴、歩行距離:2.4km。ウルムチ ⇒ 蘭州 ⇒ 上海 移動日。

ホテル出発 8:30 ウルムチ空港でのセキュリティ・チェック、 11:10 発の予定が一時間遅れの 12:10 ⇒ 蘭州着 14:40 // 蘭州発 16:00 ⇒ 上海(浦東) 18:20 ホテル着 18:50 。

ウルムチから蘭州へのフライトは快晴の日中にシルクロードを空から眺めることになり、右窓からは雪を被った山々を左窓からは黄土色の砂漠をと目を楽しましてくれた。

 

第八日目:10月27日(日) 曇り、歩行距離:3.3km、上海(浦東) ⇒ 羽田 帰国。

ホテル発 9:20 ⇒上海(浦東)着 9:50 空港でのセキュリティ・チェック 、発 13:05 ⇒ 羽田着 16:50 。

 

以上、8日間で総歩行距離は46kmであった。 以下に簡単なルート図と主な写真を添付。

 

 

 

 

 

 

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コメント

  • 鈴木直久 より:

    山本さんの主な関心は欧米の美術に向っていると思っていたので、この旅行記には意表をつかれた。

    NHKは、1979年から中国とシルクロードの共同取材を行って、翌1980年からその翌年にかけてテレビで放映した。いわゆる「シルクロードブーム」は、その番組が火付け役になったようだ。
    ご多分に漏れず、わたしもその番組を熱心に見たし、その内容が6巻に分けて出版されると買って読んだ。しかし何分にも約40年前のことであるから、内容の大半は記憶が定かでない。

    投稿された旅行記を読んで大いに刺激されたので、そのルートにしたがって復習してみたいと思う。