フランソワーズ・ジローおよびカールトン・レイク著野中邦子訳「ピカソとの日々」白水社(2019年4月1日発行)
今春山本雅晴さんの「南フランス旅行記」を読んで、マティスについて若干の質問をしたところ、彼からヒラリー・スパーリング著野中邦子訳「マティス 知られざる生涯」(白水社)を紹介されたので、県立図書館から借りて読んだ。それはマティス評伝の決定版とされている大著である。読んだおかげで疑問が解消したばかりでなく、マティスの生涯について詳しく知るとともに彼の作品の理解を深めることができた。
また同書のなかに晩年のマティスがピカソと親しく交流したことが紹介されているが、その交流には、当時ピカソと一緒に生活していたフランソワーズ・ジローという女性が積極的に関わっていたことを知って彼女に関心を持った。
彼女は1964年にLife with Picassoという回想記を出版してベストセラーになった。それが本書である。彼女が記憶に基づいて語ったことを作家のカールトン・レイクが聞き取ってまとめたものである。
邦訳は瀬木慎一訳「ピカソとの生活」として翌1965年に新潮社から刊行された。
ところが、今年の4月にその新訳が野中邦子訳「ピカソとの日々」として白水社から刊行されたのである。訳者は「マティス 知られざる生涯」と同じである。それを知ってにわかに関心が強まったので、やはり県立図書館から借りて読んだ。
なお6月15日の朝日新聞読書欄で本書が取り上げられて横尾忠則が書評を書いているので、読まれた方もおられるだろうと思う。
前置きが長くなって申し訳ありませんでした。
ただ一美術術愛好者としては読んでとにかく大変面白かったし、何分にもピカソがテーマだから、そうでない方にも興味深い内容だと思うので、紹介させていただくことにする。
ジローは1943年にピカソ(61歳)に初めて会ったとき21歳で、ソルボンヌ大学で法律を専攻していながら、画家になる決心をしたときだった。彼女はピカソと急速に親密になり、1946年に同居を始めたが、1953年に彼女の方から別れた。完全に別れたのは1955年である。
ピカソの一生は女性遍歴の一生でもあったが、約10年間も一緒に暮らしたのは彼女だけである。またピカソの子供四人のうち二人を生んだ。
本書の魅力は何であろうか。
先ず第一に、何といっても、この20世紀最大の美術家の日常の、生身の姿を、大胆、率直かつ詳細に示したことである。本書は彼の崇拝者たちにとってはスキャンダラスで腹立たしい内容だったようで、批判の猛攻撃を受けた。しかし、本書を読むと、彼女は一緒に暮らしたことを一貫して感謝しており、単なる批判、まして敵意は微塵も感じられず、事実を正確に伝えているだけである。数多くのエピソードが紹介されているから、読むとピカソの人物像が生き生きと浮かび上がってくる。
その人物像を一言で表せば、利己主義という使い古された言葉がぴったり当てはまる男だった。例えば、ピカソが結婚前にバルセロナに行って、最初の妻となるオルガを母親に紹介したときに、母親は言った。「かわいそうに、あんたは自分の行く末がわかっていないんだね。私があんたの友達なら、なにがなんでもやめておけというだろうに。うちの息子といっしょになって幸せになれる女なんかいない。この子は自分のためなら何でもするけど、他人のためには何もしないよ」(137ページ)。
第二に、ピカソの作品の制作過程が具体的に紹介されていることである。
彼は寡黙に制作するタイプの芸術家ではなかったから、制作しながら作品の意図、過程などをジローに詳しく語った。あの天才が語った内容を正確に記憶して再現した彼女の能力には、ただただ驚き、感嘆するほかない。
一例として、初めてジローを描いたときの状況を紹介してみよう。
低い台の上でジローにポーズをとらせると、大判のスケッチブックを手にとり、頭部のスケッチを3枚描いたが、「だめだな、うまくいかない」といって破り捨てた。次の日は「ヌードのほうがよさそうだ」といった。服を脱ぐと、両手を体の脇に下し、ほぼ直立状態に立たせた。ピカソは、三、四メートル離れたところから観察するようにじっと見ていた。一秒たりとも目を離さず、スケッチブックに触れようともしなかった。鉛筆さえ持たなかった。それはとても長い時間に思えた。ようやく彼は口を開いた。「どうすればいいかわかった。もう服を着ていいよ」。服を着たとき、ジローは一時間あまり立っていたことに気づいた。翌日、ピカソは記憶を頼りに、立っている彼女を描いたスケッチの連作に取りかかった。そのほかにも彼女を描いた十一点からなるリトグラフのシリーズも制作した。そのどれにも、左眼の下に小さなほくろが添えられ、右の眉は山形のアクサン記号のように描かれた。
同じ日、油彩で彼女の肖像を描いた。その絵はのちに「花の女」(1946年)と呼ばれるようになった。その完成までの過程が3ページにわたって詳しく紹介されている(107-109ページ)。完成日は示されていないが、少なくとも翌月までを要した。
第三に、ピカソのもとに訪れた、あるいは一緒に訪ねた多くの画家、彫刻家、ブロンズ鋳造職人、陶芸家、詩人、作家、画商、蒐集家、哲学者、政治家たちに、彼女も一緒に会って同席した。だから彼らに対するピカソの言動と評価が語られている。
例えば、この一文の最初に言及したマティスとの交流については、「ともに暮らしていたあいだ、ピカソが交流を持ち、訪ねて行ったすべての芸術家のうち、彼にとってマティスほど重要な人は他にいなかった」と語られている(233ページ)。
またジロー自身も初めてピカソのアトリエを訪れたときのことを、「最も目を引いたのは、マティスの輝くばかりの油彩画だった」、「私は思わず「まあ、なんて美しいマティスかしら!」などと言っており、当初からマティスを敬愛していたことが分かる(15ページ)。
ピカソはジローとの同居中も不倫と女遊びが止まなかったが、彼と特別に親密だった彼女以外の4人の女性、すなわち最初の妻オルガと息子パウロ、マリー・テレーズと娘マヤ、「泣く女」のモデルとして名高いドラ・マールおよびジローの後釜に座った二人目の妻ジャクリーヌ・ロックとの接触についても具体的に語られている。
ピカソは、秘書のサバルテス、メイドのイネスおよび運転手のマルセルの三人を雇っていた。いずれも大変な薄給だった。彼らの存在は本書の出版のおかげで人々の記憶に残っているのかもしれない。マルセルは25年間勤めた挙句あっさり解雇された。彼は次の言葉を残している。
「これまでさんざんつくしてきたのに、くびだって?」「いつかみんなに見放される日が来ると警告しておきますよ。あんたがそんなに薄情なら、フランソワーズ(ジローのこと)だって、いつかあんたを捨てる日が来るでしょうよ」
このように本書はピカソとの生活について語っているのであるが、読んでいると、語っているジロー本人にも感嘆させられる。彼女は大柄で個性的な顔立ちの、凄みを感じさせる美人であった(本書に写真があるしネットで見ることもできる)が、ピカソが魅せられたのはその美貌ではなく、類まれな高い知性であったことが分かる。ピカソ自身も実に鋭い知性を持っていた。またジローは、特に記憶力については、「「完全な記憶力」という大げさな言葉が文字どおり存在するのを目の当たりにして感銘を受けた」と共著者のレイクが、本書のはしがきに書いているほどである。そのうえ彼女は法律を捨てて画家になることを決心したくらいだから、美術についての幅広い知識を持ち、またピカソの制作助手を務めるだけの技能と絵画センスを持っていた。ピカソにとって、打てば響くように頭の回転が速い彼女は飽きることのない存在だったと思う。
彼女は若かったから、ピカソに全身全霊を傾けて生きたが、出会いから10年を過ぎて、子供たちが生活の大きな部分を占めるようになり、また70歳を過ぎたピカソとの年齢差を感じるようになった。一方ピカソは、ジローが苦心して築いた家庭という檻に囲い込まれたと感じるようになった。
彼女はピカソと同居するまで一緒に暮らした、彼女が敬愛する祖母の死にピカソが冷淡だったことをきっかけに、別れることを決意した。ピカソは同意しなかったが、断固として別れた。一読者としては、10年間もよくもったものだと思う。
その別れかたによって、彼女は「ピカソを振ったただ一人の女性」としても知られることになった。
一方、女の方が去ることなど夢想だにしなかったピカソは激怒し、彼の影響力を駆使してその後のジローの活動を妨害した。例えば、画商のカーンワイラーは、彼女の絵画も取り扱っていたが、契約を解消した。本書の出版にあたっては、ピカソが差し止め訴訟を起こした。ただし敗訴に終わった。
最後に、ピカソと別れたのちの彼女について簡単に記しておきたい。
旧知の若い画家リュック・シモンと結婚して一児をもうけたが、ピカソから復縁して結婚することを提案され(最初の妻オルガは1955年に病死していた)、子供たちのことを考えて離婚話を進めたが、ピカソは彼女の後釜にすわったジャクリーヌと秘密裡に再婚してしまった。
ジローは子供たちの認知裁判をおこして勝訴したので、二人の子供たちはピカソ姓を名乗る権利を獲得し、またピカソの死後遺産の10%ずつを相続することができた(マリー・テレーズが生んだ二人目の子供マヤは認知を得られなかった)。
彼女自身も画家として成功し、小児麻痺のワクチン開発で有名なジョナス・ソーク博士と再婚し、アメリカに移住した。
2010年に日本でも回顧展を開き、2019年現在なお健在であり、あと二年で百歳を迎える。