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「平成」最後の投稿、新元号「令和」について、竹崎さん

「平成」最後の投稿、新元号「令和」について、竹崎さん

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新元号「令和」の拠典となった万葉集の梅の花の歌序梅花の歌三十二首の紹介

平成31年4月29日

竹崎南登士

 

はじめに

前田さんに依頼されて万葉集について何となく筆を執ることになりました。5月1日から新元号「令和」が古来元号考案に当たって初めて国書である万葉集を拠典したと報道されていることは申し上げるまでもありません。令和は、「れいわ」と読むとされましたが、前田さんの言うように、「りょうわ」とも読めるわけで、後者の方が発声上流れが良さそうです。昭和も大正も古来可成りの元号にも「・・ょう・・」の音が含まれています。

さて、万葉集の研究をしている訳では全くなく、唯ひたすら諸説にとらわれることなく万葉集の歌だけを勝手な解釈で鑑賞している私にとって、前田さんからの依頼に答えられるとは到底思いませんが、「令和」に関する部分を少し掘り下げてご紹介と言うよりも調査報告を試みたいと思います。

 

梅花(うめのはな)の歌三十二首の序の時代

時は、天平二年(730年)正月十三日。大宰帥(和名:だざいのそち/だざいのそつ。大宰府の長官)であった大伴旅人の邸宅に集って、梅の花を愛でる宴が催された。梅は大陸からもたらされ、当時はまだ珍しい花木であったらしい。その宴を「梅花の宴」と呼び、『万葉集巻五』に収録された。ところで、この時代は、言うまでもなく、奈良時代(712年~797)の初期と言える。奈良時代の主な出来事と言えば、以下のとおり。

712年 太安万侶(おおのやすまろ)により「古事記」が編集

721年 舎人親王(とねりしんのう)により「日本書記」が編集

723年 三世一身法が制定

727年 渤海使(ぼっかいし:当時の満州・朝鮮半島にある国家からの使い)が初来日

734年 遣唐使の井真成、長安で没す

740年 藤原博嗣の乱が勃発。12月、聖武天皇、恭仁京の建設を開始

741年 国分寺建立の詔が発布

743年 大仏造立の詔が発布

752年 東大寺大仏の開眼供養が行われる

753年 日本の依頼を受け、唐より鑑真が来日

757年 橘奈良麻呂の変が勃発

758年 孝謙天皇が譲位し、淳仁天皇が即位。藤原仲麻呂、「恵美押勝」の名を賜る

764年9月、恵美押勝の乱が勃発。

764年10月、淳仁天皇を廃して淡路に配流し、孝謙上皇が重祚して称徳天皇となる

769年 宇佐八幡宮神託事件が起こり、和気清麻呂(わけのきよまろ)が大隅国に流される

770年 称徳天皇が崩御し、道鏡が下野薬師寺別当に左遷される

781年 桓武天皇が即位

784年 長岡京へ遷都

785年 長岡京建設の責任者であった藤原種継が暗殺され、桓武天皇弟早良親王が流罪となる

788年 最澄が比叡山に延暦寺を建立

794年 平安京へ遷都

797年 坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命される

 

梅花の宴が催された太宰府とは

大宝律令(701年)によって、九州の大宰府は政府機関として確立したが、他の大宰は廃止され、後に一般的に「大宰府」と言えば九州のそれを指すとされている。

外交と防衛を主任務とすると共に、西海道9国(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅)と三島(壱岐、対馬、多禰(現在の大隅諸島。824年に大隅に編入))については、掾(じょう)以下の人事や四度使の監査などの行政・司法を所管した。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれる。

軍事面としては、その管轄下に防人を統括する防人司、主船司を置き、西辺国境の防備を担っていた。

外交面では、北九州が古来中国の王朝や朝鮮半島などとの交流の玄関的機能を果たしていたという背景もあり、海外使節を接待するための迎賓館である鴻臚館(こうろかん)が那津(現在の博多湾)の沿岸に置かれた。

長官は大宰帥(だざいのそち)といい従三位相当官、大納言・中納言クラスの政府高官が兼ねていたが、平安時代には親王が任命されて実際には赴任しないケースが大半となり、次席である大宰権帥が実際の政務を取り仕切った(ただし、大臣経験者が左遷された場合、実務権限はない)。帥・権帥の任期は5年であった。また、この頃は、唐宋商船との私貿易の中心となった。

北部九州六国から徴発された西海道の仕丁は、太宰府に集結させられた。そのうち400人前後が太宰府官人の事力(じりき)となり、あるいは主船司等に配属された(『延喜式』民部下)。このほか観世音寺の造営のための駆使丁としても使役された(『続日本紀』和銅2年(709年)2月戊子条)。

面積は約25万4000平方メートル、甲子園の約6.4倍である。

主な建物として政庁、学校、蔵司、税司、薬司、匠司、修理器仗所、客館、兵馬所、主厨司、主船所、警固所、大野城司、貢上染物所、作紙などがあったとされる。しかし、遺跡が確認されたものは少ない。

因みに、大宝律令(701年)以前には、地方行政上重要な地域に置かれ、数ヶ国程度の広い地域を統治する大宰(おほ みこともち)と言う役職、いわば地方行政長官が置かれていたが、大宝律令(701年)でこれらは廃止され九州の大宰府だけが政府機関として確立された。

梅花(うめのはな)の宴で詠われた歌三十二首并せて序

初めにも説明したように、梅は大陸からもたらされ、当時はまだ珍しい花木であったという状況を念頭に置いて、催された「梅花の宴」の歌を鑑賞するのがいいのではないかと思う。現在の我々には、梅の花はさほど感動を覚えるものではない程のものであり、その感覚で「梅花の宴」の歌を評価しない方がいいのではないかと思う。

梅花(うめのはな)の歌三十二首并せて序】
天平二年正月十三日に、師(そち)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)く。時に、初春(しよしゆん)の令(れい)月(げつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す。加之(しかのみにあらず)、曙の嶺(みね)に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きにがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥はうすものにめらえて林に迷(まと)ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。ここに天を蓋(きにがさ)とし、地を座(しきゐ)とし、膝を促(ちかづ)け觴(かづき)を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿(えり)を煙霞の外に開く。淡(たん)然(ぜん)と自ら放(ひしきまま)にし、快然と自ら足る。若し翰(かん)苑(えん)にあらずは、何を以ちてか情(こころ)を述べむ。詩に落梅の篇(へん)を紀(しる)す。古と今とそれ何そ異ならむ。宜しく園の梅を賦(ふ)して聊(いささ)かに短詠(たんえい)を成すべし。
(注:令(れい)月(げつ)には、1 何事をするにもよい月。めでたい月。「嘉辰 (かしん) 令月」、2 陰暦2月の異称の

二つの意味がるが、ここでは前者の意味で用いられているのは明らか。)

 

≪序の内容≫

天平二年(730年)正月十三日に、大宰帥(和名:だざいのそち/だざいのそつ。大宰府の長官)の大伴旅人の邸宅に集まって、宴会を開く。時に、初春の好き月令(れい)月(げつ))にして、空気はよく風は爽やかに(和(やはら)ぎ)、梅は鏡の前の美女が装う白粉(おしろい)のように開き、蘭は身を飾った香のように薫っている。のみにあらず、明け方の嶺には雲が移り動き、松は薄絹のような雲を掛けてきぬがさを傾け、山のくぼみには霧がわだかまり、鳥は薄霧に封じ込められて林に迷っている。庭には蝶が舞い、空には年を越した雁が帰ろうと飛んでいる。ここに天をきぬがさとし、地を座として、膝を近づけ酒を交わす。人々は言葉を一室の裏に忘れ、胸襟を煙霞の外に開きあっている。淡然と自らの心のままに振る舞い、快くそれぞれが満ち足りている。これを文筆にするのでなければ、どのようにして心を表現しよう。中国にも多くの落梅の詩がある。いにしえと現在と何の違いがあろう。よろしく園の梅を詠んでいささの短詠を作ろうではないか。
この漢詩風の一文は、梅花の歌三十二首の前につけられた序で、おそらくは山上憶良の作かとされている。
この後つづく三十二首の歌は、三十二人が八人ずつ四群に分かれて八首ずつ順に詠んだものであり、各々円座で回し詠みしたものとなっている。
後の世の連歌の原型とも取れる(連歌と違いここでは一人が一首を詠んでいますが)ような共同作業的雰囲気も感じられ、当時の筑紫歌壇の華やかさが最もよく感じられる一群の歌と言える。
この序だけの紹介では、新聞などに紹介されているかと思うので、この際、この「梅花の宴」の歌全首32首を以下に挙げておきます。

 

巻五(八一五) 詠み人 大弐紀卿(だいにきのまへつきみ)
    正月(むつき)立ち春の来らばかくしこそ梅を招(を)きつつ楽しきを経(へ)め

(正月になって新春がやってきたならこのように梅の寿を招いて楽しき日を過ごそう。)

 

巻五(八一六) 詠み人 少弐小野大夫(せうにをののだいぶ)
梅の花今咲ける如(ごと)散り過ぎずわが家(へ)の園にありこせぬかも

(梅の花は今咲いているように散り過ぎることなくわが家の庭にも咲いてほしいものよ)

巻五(八一七) 詠み人 少弐粟田大夫(せうにあはたのだいぶ)は粟田人上(あはたのひとかみ)のこと。

梅の花咲きたる園の青柳(あおやぎ)は蘰(かづら)にすべく成りにけらずや

梅の花の咲いている庭には青柳もまた蘰にほどよくなっていることだ。)青柳は「シザレヤナギ」。

 

巻五(八一八) 詠み人 山上憶良(筑前守山上大夫(つくしのみちのくのかみやまのうへのだいぶ)

春さればまづ咲く庭の梅の花独り見つつや春(はる)日暮(ひくら)さむ

(春になるとまず最初に咲く梅の花をわたしひとりで見て春の日を過ごすなどどうして出来ようか)

 

巻五(八一九) 詠み人 大伴三依(おほとものみより)

世の中は恋繁(しげ)(しげ)しゑや、かくしあらば梅の花にも成らましものを

 

(世の中は恋に苦しむことが多いこと。それならいっそ梅の花にでもなってしま

いたいものです。)

巻五(八二〇) 詠み人 葛井大成(筑後守葛井大夫(つくしのみちのしりのかみふぢゐ

のだいぶ))

梅の花今盛りなり思ふどち插(かざ)頭(し)(かざし)にしてな今盛りなり

(梅の花は今が盛りだ親しき人々よ頭髪に挿して飾ろう。今が盛りだ。)

 

巻五(八二一) 詠み人 笠沙弥(かさのさみ)で、沙弥満誓(さみのまんせい)のこと

青柳(あをやなぎ)、梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし

(青柳を折り梅をかざして酒を飲んだその後はもう散ってしまっても満足だ。)

巻五(八二二) 詠み人 大伴旅人
    わが園に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも

 

わが家の庭に梅の花が散る。はるか遠い天より雪が流れて来るよ。)

以上、大弐紀卿の巻五(八一五)の歌からこの旅人の巻五(八二二)の歌までの八首が第

一集団の歌となっている。巻五(八二三)から第二集団の歌に続きます。

巻五(八二三) 詠み人 大監伴氏百代(ばんしのももよ)で、大伴百代(おほとものももよ)のこと。
    梅の花散(ち)らくは何処(いづく)、しかすがにこの城(き)の山に雪は降りつつ

(梅の花が散っているのは何処だろう。それにしてもこの城の山には雪が降り続いている。)

巻五(八二四) 詠み人 少監阿氏奥島(せうげんあしのおきしま)

    梅の花散らまく惜しみわが園の竹の林に鶯鳴くも

(梅の花の散るのを惜しんでわが庭の竹の林に鶯が鳴いている。)

巻五(八二五) 詠み人 少監土氏百村(せうげんとしのももむら)
    梅の花咲きたる庭の青柳を蘰(かづら)にしつつ遊び暮さな

(梅の花が咲いている庭の青柳を蘰にして一日を遊び暮らそう。)

巻五(八二六) 詠み人 大典史氏大原(だいてんししのおほはら)

    うち靡(なび)く春の柳とわが宿の梅の花とを如何にか分かむ

(うち靡く春の柳とわが屋の梅の花と、どちらが優れているかどのように判断しよう。)

巻五(八二七) 詠み人 山氏若麿(さんしのわかまろ)」で、「山口若麿(やまぐちのわかまろ)」のこと。
    春されば木末隠(こぬれがく)れて鶯そ鳴きて去(い)ぬなる梅が下枝(しづえ)に

(春になれば梢に隠れて鶯が鳴き移るようです。梅の下枝のほうに…)

 

巻五(八二八) 詠み人 大判事丹氏麿(だいはんじたんしのまろ)

人(ひと)毎(ごと)に折り插頭(かざ)しつつ遊べどもいや愛(め)づらしき梅の花かも

(皆それぞれに折りかざしつつ遊ぶけれど、なお愛すべき梅の花よ。)

 

巻五(八二九) 詠み人 薬師張氏福子(くすりしちやうしのふくし)

梅の花咲きて散りなば桜花継て咲くべくなりにてあらず

(梅の花が咲いて散ってしまったなら桜の花が継いで咲きそうになっているではないか)

 

巻五(八三〇) 詠み人 筑前介佐氏子首(すけさしのこおびと)

万代(よるづよ)に年は来(き)経(ふ)とも梅の花絶ゆることなく咲き渡るべし

(万年の年を経るとも梅の花は絶えることなく咲き続けるがよい。)

以上、ここまでが第二集団の八首の歌。次に第三集団の歌に続く。

巻五(八三一) 詠み人 壱岐守板氏安麿(いきのかみはんしやすまろ)

春なれば宜(うべ)も咲きたる梅の花君を思ふと夜眠(よい)も寝なくに

(春になってなるほどよく咲いた梅の花よ。君を思うと夜も眠れないよ。)

この歌は第三集団の最初の一首。

 

巻五(八三二) 詠み人 神司荒氏稲布(かむづかさこうしのいなしき)

梅の花折りてかざせる諸人(もろびと)は今日(けふ)の間(あひだ)は楽(たの)しくあるべし

(梅の花を折りかざして遊ぶ人々は今日一日が楽しいことでしょう。)

 

巻五(八三三) 詠み人 大令史野氏宿奈麿(だいりやうしやしのすくなまろ)

毎年(としのは)(に春の来らばかくしこそ梅を插頭(かざ)して楽しく飲まめ
(年ごとに春がめぐり来ればこのように梅をかざして楽しく酒を飲もう。)

 

巻五(八三四) 詠み人 少令史田氏肥人(せうりやうしでんしのうまひと)

 

梅の花今盛りなり百(もも)鳥(どり)の声の恋(こほ)しき春来たるらし
(梅の花は今が盛りだ鳥々たちの声も恋しい春がやって来るらしい)

 

巻五(八三五) 詠み人 薬師高氏義通(かうしのぎつう)高句麗系の渡来人か

 

春さらば逢はむと思ひし梅の花今日の遊びにあひ見つるかも
(春になったなら逢おうと思っていた梅の花に今日の宴の席で逢えたことだな

 

巻五(八三六) 詠み人 陰陽師礒氏法麿(おんやうしぎしののりまろ)

 

梅の花手(た)折(を)り插(か)頭(ざ)して遊べども飽き足らぬ日は今日にしありけり

(梅の花を手折りかざして遊んでいても飽きることない日は今日なのだなあ。)

 

巻五(八三七) 詠み人 算師志氏大道(さんしししのおほみち)で志紀大道(しきのおほみち)のこと。「算師(さんし)」は、計数の官。

春の野に鳴くや鶯懐(なつ)けむとわが家(へ)の園に梅が花咲く
(春の野に鳴くよ鶯。その鶯を引き寄せようと我が家の庭に梅が花を咲かせている。)

 

巻五(八三八) 詠み人 大隅目榎氏鉢麿(おほすみのさくわんかしのはちまろ)
「目(さくわん)」は四等官。

    梅の花散り乱(まが)ひたる岡傍(び)には鶯鳴くも春かた設(ま)けて

(梅の花の散り乱れる岡には鶯が鳴いているよ。春の気配濃く。)

以上、第三集団の八人の最後の歌でした。続いて、第四集団の歌に続きます。

巻五(八三九) 詠み人 筑前目田氏真神(でんしのまかみ)

    春の野に霧り立ち渡り降る雪と人の見るまで梅の花散る

(春の野に一面に立ち渡って降る雪かと人が思うほどに梅の花が散っているなあ。)

この歌は第四集団の最初の一首。

巻五(八四〇) 詠み人 壱岐(いき)目村氏彼方(そんしのをちかた)

    春柳(はるやなご)蘰(かづら)に折りし、梅の花、誰(たれ)か浮べし酒杯(さかづき)の上(へ)に

(春柳を蘰にしようと折ったことだ。梅の花も誰かが浮かべているよ。酒杯の上に。)

 

巻五(八四一) 詠み人 対馬(つしまの)目高氏老(かうしのおゆ)で高向村主老(たかむこのすぐりおゆ)のこと。

    鶯の声(おと)聞くなへに、梅の花、吾家(わぎへ)の園に、咲きて散る見ゆ
(鶯の声を聞くのにつれて、梅の花が我が家の庭に咲いては散ってゆくのが見える。)

 

巻五(八四二) 詠み人 薩摩(さつまの)目高氏海人(あまひと)

    わが宿の梅の下枝(しつえ)(しつえ)に遊びつつ鶯鳴くも散らまく惜しみ
(わが家の梅の下枝に遊びながら鶯が鳴いている。梅の散るのを惜しんで。)

巻五(八四三) 詠み人 土師氏御道(はにししのみみち)

 

    梅の花折り插頭(かざ)しつつ諸人(もろひと)の遊ぶを見れば都しぞ思(も)ふ
(梅の花を折りかざしながら人々の遊ぶのを見ると奈良の都での宴のことが思い出さる。)

 

巻五(八四四) 詠み人 小野氏国堅(くにかた)で門部石足(かどべのいはたり)のこと。
    妹(いも)が家(へ)に雪かも降ると見るまでにここだも乱(まが)ふ梅の花かも
(恋しい人の家に雪が降っているのかと見紛うほどに散り乱れる梅の花。)

 

巻五(八四五) 詠み人 筑前掾門氏石足(じやうもんしのいはたり)

 

鶯の待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子がため

(鶯が開花を待ちわびていた梅の花は散らずにあってほしいものだ。恋い慕う子らのため。)

巻五(八四六) 詠み人 小野氏淡理(たもり)で小野田守(おののたもり)のこと

 

   霞立つ長き春日(はるひ)を插頭(かざ)せれどいや懐しき梅の花かも
(霞の立つ春の日を一日かざしつづけてもなお恋しい梅の花だ。)

以上、大伴旅人たちが「梅花の宴」で詠んだ三十二首のでした。

 

 

おわりに

今日の我々にとっては、梅の花など全国どでもあちこちに早春には見られ、全く珍しい花木ではないので、「梅花の宴」で詠んだ三十二首にこれと言ってさほどの感銘を受けるものではないかと思います。万葉集のなかでも大きな評価を受けているようでもなさそうであります。しかし、梅の花に殆ど目にかかることがない程、非常に珍しい花木を我が邸宅で見事に咲きほこる様子をあるじはもとより、一堂に会した高貴の人々だけが持っていた感性が歌を詠ませた背景はそれとなく想像の域にあるように思います。後の古今集や新古今集などに影響を与えたとも言われているである。しかし、「梅花の宴」で詠んだ三十二首からも窺えるように、万葉集の歌は、後の古今集や新古今集の歌に比べて、本当にありのままを詠っている素朴さが感じられます。万葉の歌には、一語一語の裏に包含され、万人が個々の経験で共有する深遠な情感を引き出すような言葉の組合せや使い方はされていないので、言葉の組合せ・選択により初めて醸し出される身震いを覚えるような情感を覚えないが、それでいて何よりも素朴なところが万葉の歌の新鮮な魅力ではないかと思います。

少々長い報告となり申し訳ありませんでした。

前田さんが私に求めた万葉集についてのご要望は、もっと別のところにあったとすれば、またの機会に譲らせて戴くとし、今回はこれで勘弁願います。

最後になりましたが、報告書作成にあたって、梅の花の歌序と梅花の歌三十二首を抜粋などさせて戴いた「万葉集入門」(http://manyou.plabot.michikusa.jp/index.html)の制作等の方々に謝意を表します。

以上

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