名工大 D38 同窓会

名工大 D38 同窓会のホームページは、卒業後50年目の同窓会を記念して作成しました。

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前田・宮口・三山
スペイン・インフルエンザについて、   鈴木直久

スペイン・インフルエンザについて、   鈴木直久

 今冬もインフルエンザが流行していますが、図書2月号(岩波書店)に、「大流行による惨劇から一〇〇年―スペイン・インフルエンザ」と題して、田代眞人氏(国立感染症研究所インフルエンザウイルス研究センター長)が、4ページの興味深い文章を寄稿しておられるので、その一部を抜粋してご参考に供したいと思います。

 

「二〇一八年はインフルエンザ流行史で最悪のスペイン・インフルエンザ(日本ではスペインかぜと呼ばれる)から一〇〇年にあたり、世界各地でさまざまな講演会や出版が行われた。いずれもが、一〇〇年前の災厄が忘れ去られている現状を憂慮し、その教訓を生かして、いつか必ず起こる人類存亡のインフルエンザ危機に備えて、地球全体で準備・対応することの必要性を警告している。」

 

「一九一八-一九年のスペイン・インフルエンザの世界大流行(パンデミック)では、当時の世界人口約二〇億人の三分の一が感染発症し、二千万-五千万人が死亡したと推計されている(中国、アフリカなどを含めると一億人との推定もある)。」

 

「一九一八年初春に米国カンザス州の新兵訓練所で、季節遅れのインフルエンザ流行により多数の兵士が入院した。その後、各地へ拡大したが、症状や致死率は通常の季節性インフルエンザと大差なく、特に注目されなかった。

 第一次世界大戦に途中参加した米国は一八年春から多数の兵士を欧州に派遣したが、それに伴ってインフルエンザは欧州へ、さらに世界各地に広がった。しかし、一般に健康被害は軽く、パンデミックの先ぶれである第一波の流行は8月までに終息した。

 ところが9月、インフルエンザが再出現した。この第二波は激烈で、三ヶ月のうちに欧州から全世界へと拡大し、壊滅的な大流行を起こした。生存者の多くも二次性の細菌性肺炎で死亡した。原因も予防・治療法も不明であった。犠牲者の多くが青壮年だった。

 膠着状態に陥った世界大戦の最終局面で両陣営の戦力は激減し、パリに迫る西部戦線では、ロシア戦線から戦力を転用したドイツ軍の最終突撃は中止された。それがドイツ降伏(一九一八年一一月)の原因ともいわれる。

 休戦後の一九一九年にも第三波が追い打ちをかけ、流行規模は減少したが死亡数はさらに増加した。」

 

「スペイン・インフルエンザ流行当時、山内保ら三人の日本人研究者が、スペイン・インフルエンザの病原体は細菌ではなく、ウイルスであることを証明し、英国の医学雑誌”Lancet”に発表していた。被検者への感染実験など、現在では問題のある研究方法もあり、長く無視されていたが、最近、世界的に再評価されつつある。」

 

「現在、H5H7型の鳥インフルエンザウイルスがヒトでも大きな健康被害を起こし、パンデミックの出現が懸念されている。

研究のほとんどの局面で世界を牽引指導してきた世界的インフルエンザ研究者RG・ウェブスター博士は、これまでの知見に基づき、スペイン・インフルエンザを超える最悪のパンデミックの発生は時間の問題であるとして、これに対して十分に事前準備することの必要性を説いている。」

 

「日本でも一九一八-二〇年(大正七-九年)に、スペイン・インフルエンザによる甚大な健康被害(当時の内地の人口五五〇〇万人のうち四五万人が死亡)と、市民生活・社会機能に大きな影響が生じたが、その実態が解明されぬまま記憶が薄れている。

 大正デモクラシーの楽観的な社会の雰囲気と、逆に昭和前期の軍事優先の流れによって、国民の士気を削ぐような健康被害と社会的影響は過小評価され、意図的に隠された。さらに、映像に残る関東大震災の強烈な記憶の蔭で、その五倍もの死者を出したスペイン・インフルエンザの記憶は忘れ去られた。」

 

「しかし、日本でのスペイン・インフルエンザの実態を解明した名著がある(速水融「日本を襲ったスペイン・インフルエンザ―人類とウイルスの第一次世界戦争」2006年、藤原書店)。(鈴木注:速水融(1929-);経済学者。文化勲章受章者。日本に歴史人口学を導入したことで知られる。)

 それは、統計資料の再検討と当時の新聞記事などから被害の実態と人びとの対応を丁寧に説明する歴史人類学の手法により、大きく欠落していた日本でのスペイン・インフルエンザの実態を解明した。

 速水先生は、日本が、スペイン・インフルエンザからほとんど何も学んでこなかったことを教訓として、今後必ず起こるパンデミックの災厄を「減災」するための事前準備と緊急対応の必要性を強調している。」    

 

                                      以上

(2019/02/01     鈴木直久 記)

 

 

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