名工大 D38 同窓会

名工大 D38 同窓会のホームページは、卒業後50年目の同窓会を記念して作成しました。

 管理者     
前田・宮口・三山
古典と素数のひとり旅、竹﨑南登士

古典と素数のひとり旅、竹﨑南登士

この竹崎さんの投稿で12月6日の忘年会で、ホームページへの投稿を依頼した全てが原稿が揃い皆さんにご披露しました。あと山本雅さんの名古屋美術館に関するその2があります。3-4日後にアップロードします。このように皆さんの投稿を受け、管理人として後1-2年頑張る勇気が出てきました。他の同窓の皆さんの何でも結構、同窓の皆さんにご披露する近況のご報告をお待ちしています。特に、同窓の皆さんの近くにある写真と3-4行の説明で近況をお届け頂けるのが待ち遠しいです。(管理人)

はじめに

名工大 D38 同窓会 のホームページに投稿を前田さんから頼まれて、その旨を同ホームページ上に公表されてしまったからには、逃げるに逃げられなくなり、仕方なく筆を執る羽目になりました。12月6日(木)のD38昼食忘年会で話した近況報告に少し毛をはやした程度のことを述べるにして、勘弁願います。

 

古典への郷愁の旅

懐旧の遥か彼方となってしました高校時代に教わった古典、中でも特に詩歌のなかで強烈な感銘を受け鮮明に印象に残っているものが幾つかあった。しかし、それ以来、今日まで忙殺の会社生活の中で葬り去られていた古典への回帰は、昨年に始まった。やり残しの念に駆り立てられ、生あるうちに日本人としてのアイデンティティーと言うと可成り大袈裟だが日本人として何かを噛み締めておきたかった。そうかと言って、古典を極めたり、研究したりする積りは毛頭ない。そんな能力もないし、時間もないし、今日までに古典研究家によって研究されてきた膨大な研究成果は無数に出版されている。そういう研究成果などを読む積りもない。専ら、唯ひたすら感銘を受ける古典を堪能するだけである。意味の分からない単語や文については調べてるだけに止めてみた。現代語訳を読むとそれに情景や情感が固定されてしまい、自分の描く想像の世界が阻害されてしまうことを嫌ったからである。古典に接する場合、これが一番懸念されるからである。

丁度、ある小説を読む前に、その映画を先に見てしまうと、その後でその小説を読むと、どうしても映画の印象が優先され、自分の想像の世界がほとんど湧い出てこないのに似ているからである。特に、散文でなく、韻文である詩歌は正にそうである。詩歌の素晴らしさがかき消されてしまうからである。詩歌程、読む人の育ってきた幼少の頃の環境や日本人がなんとなく共有する日本の原風景への郷愁は人によって、受ける印象や創造の情景や情感が著しく異なる。同じ詩歌を読んでも、十人十色の想像の世界が出現し、それを鑑賞し感銘を受けたり、そうでなかったりするものでしょう。詩歌は特にその当時の時代の人に共有する視覚的・精神的なバックグラウンドがあってこそ初めて、短い文書で多くの情景や情感を人に伝える芸術と言えるだろう。詩歌を構成している個々の単語の一つ一つがバックグラウンドの情景や情感を含んでおり、それがあって初めて詩歌が芸術として鑑賞され評価されていると言えるのでしょう。数少ない数語の単語の一語一語の独立したそれぞれの意味以上のものが、その組み合わせ、しかも、絶妙な組み合わせ・配置によって初めて名歌となる芸術と言うことではないでしょうか。しかも、面白いことに、個々の単語の一つ一つのバックグラウンドを形成している一人一人持つ情景や情感が個人個人によって微妙に異なっていることである。だからこそ先入観無しで読むのが楽しい。自分の想像の情景や情感の世界に耽られる。

そこで、何の説明もせず、ここに私の好きな、またよく知られている和歌・俳句を二、三挙げて、私の古典への郷愁の一人旅の物語を終える。

 

見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕ぐれ     (新古今和歌集 藤原定家)

 

山路来て何やらゆかしすみれ草    (野ざらし紀行;松尾芭蕉)

 

石山の石より白し秋の風    (奥の細道;松尾芭蕉)

 

閑さや岩にしみ入蝉の声    (奥の細道;松尾芭蕉)

 

 

素数への無謀な一人旅

頭の体操・ボケ防止のつもりで、昨年頃から始めたのが素数である。素数が発見されておよそ2600年経っているが、素数がどういう順序で出現するかは、いまだに解決されていない。如何なる法則に従って出現するかは皆目予測がつかない。テレビで見た、うろ覚えのことだが、19世紀頃、ロシアの或る数学者が素数の出現法則に熱中する余り、頭がおかしくなって不審な死を遂げたということである。素数の出現法則を解明するには、もしかして現存しない全く新しい数学の誕生を待たなければならないかも知れない。逆に、素数の出現法則を解明しようとしている内に、これまでにもそうであったように、全く新しい数学が発見されるかもしれない。それが10年先なのか、100年先なのか、もしかして素数の出現法則なるものは全く存在しないのかもしれない。

素数の出現法則を解明しようとするのは、頭の体操どころの話ではないことは誰の目にも明白なことで、そこで頭の体操にしているのは、どうもどの本を見ても紹介されていない素数の判定方法である。本に紹介されている素数判定法(或る数Xが素数であるか否かを判定する方法)は、ご存知のように、Xを既知の素数3、7、11、13、・・・・で順次割り算を続行し割り切れなければ、Xは素数であると判定される。しかし、この方法は、言うまでもなくXが大きな数になれば成る程、ものすごい回数の割り算を実行しなければならないことになる。或る数Xが素数であるか否かは、ものすごい回数の割り算を繰り返すのであるが、そのものすごい回数の割り算を繰り返したにもかかわらず、素数でない場合の方が圧倒的に多いと来ているから始末に負えない。最初から素数でないと分かっている自然数は、1の位の数が0、2、4、5、6、8、であることは言うまでもないので、自然数の中で、1の位の数が1、3、7、9のいずれかである自然数(それでも合成数が殆どで稀に素数が含まれる)についてだけ、割り算を繰り返して行けばよいから、自然数の40%を対象にすればいいことになる。しかし、それでも或る数Xを割り算する場合、一般にはその数X以下の素数を確定しておかなければならない。自然数列の中で、途中の素数を確定しないままにして、その先の数の素数判定はできないことになる。割り算による素数判定法は最少の素数から順に次々と大きい素数を確定していかなければならない。150桁の数になってくると、コンピュピュータでもそう簡単に素数判定はできないと言われている(https://math-jp.net/2017/03/10/how-to-find-a-prime-number/)。近年は、素数判定計算にはコンピューターでのアルゴリズムの研究が進んでいるようである。

上記のように、素数判定は専ら割り算である。

そこで、ふと思いついたのは、小学生低学年で暗記させられる九九算である。九九算の積の中には、一切素数はないということである。それなら九九算をどんどん大きな数に拡張して行って出てくる全ての積には、素数は一つもないと言うことである。それもそのはずである。自然数は、素数と合成数(素数同士の積:合成数は素数の積に素因数分解できる数)とから構成されているから、自然数同士の積は全て合成数となる。

と言うことなので、調べたい数が素数であるかないかを判定するには、割り算でなくて、掛け算だけで素数判定ができることになる。しかも、ある数Xまでの全素数が一挙に確定することになる。つまり、ある数Xまでの九九算の拡張によって、得られた積である合成数に現れてこない数は全て素数なのである。ある数Xまでの全ての素数が一挙に判明されることになる。しかも、ある数Xまでの九九算の拡張によって、得られた積はXを超える積は不要である。例えば、1000までの九九算の拡張によって、得られる積の総数は999×999=998001個の数になるが、2~1000までに存在する全素数を確定するには、得られる積の内、1000以下のものだけであればよい。エクセルで計算すれば数秒で1000までの積が得られる。この積を小さい数(2×2=4)から大きい数(1000)の順(昇順)にエクセルで並び替えすれば、その全積にない数が全て素数となる。従来の割り算による素数判定法に比べて、掛け算による素数判定法(素数に関する多くの書物を調べたが一切紹介されていないので、自流のものと思っているが確信は未だない)は格段に計算速度が速い。

現在は、桁数の大きい数Xまでの自然数について、パソコンで掛け算による自流の素数判定法を実証計算に取り掛かっているが、先ずは、エクセルの計算ソフトで挑戦しているが、エクセル自体を殆ど使ったことがない初心者なので、その習得が前途を遮っていると言ったところが私の近況です。エクセルでの計算には限界がありそうなので、別の計算ソフトを探すか、気力があれば計算ソフトのプログラミングを自分で作成するかですが、そこまでの気力はない。

 

関心ある方へ

 

現在は巨大素数の発見競争に関心が向いているらしく、現在までに発見されている最大素数は下記表のあるように、23,249,425桁数の「277232917 − 1」(2進法表示)とされている。決して、この最大素数までの全素数が発見された訳ではない。参考までに、巨大素数の発見競争関連のサイトを挙げます。

上位5位の大きな素数(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E5%A4%A7%E3%81%AA%E7%B4%A0%E6%95%B0%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

順位 素数の式 発見日 桁数
1 277232917 − 1 2017年12月26日 23,249,425
2 274207281 − 1 2016年1月7日 22,338,618
3 257885161 − 1 2013年1月25日 17,425,170
4 243112609 − 1 2008年8月23日 12,978,189
5 242643801 − 1 2009年4月12日 12,837,064

懸賞金

Great Internet Mersenne Prime Search (GIMPS) では、彼らの無料ソフトウェアを入手し計算機上で実行してくれる参加者が、1億桁未満のメルセンヌ素数のいずれかを発見する毎に、3000米ドルの懸賞金を渡すと提示している。

電子フロンティア財団 (EFF) では大きな素数の新記録に対する懸賞金を何部門か提示している[3]。1億桁以上の素数を最初に発見した者に与えられる予定の電子フロンティア財団からの懸賞金150,000米ドルに対し、GIMPS では賞金を参加者と分配する方向で調整中である。

100万桁を越える素数が1999年に発見されたときの懸賞金は50,000米ドルであった[4]。1000万桁を超える素数が2008年に発見されたときの懸賞金は100,000米ドルであり、さらに電子フロンティア財団からCooperative Computing Award賞が授与された[3]。この業績は Time 誌が選ぶ「2008年 Top Invention」の29番目として紹介された[5]。1億桁を越える素数の発見と10億桁を超える素数の発見に対する懸賞金はまだ提示されたままである[3]。ちなみに50,000米ドルと100,000米ドルの懸賞金の受賞者は両方ともGIMPSの参加者である。

 

【補足説明:竹﨑】

≪巨大素数の発見競争は、メルセンヌ数(2n − 1)と言う特殊な分類に属する自然数のグループの中に存在する素数だけを対象としたものであり、この分類に属する自然数の中の素数はアルゴリズム上計算しやすいからでる。自然数のその他の分類としては、カレン数、ウッダル数、シェルピンスキー数、リーゼル数、プロス数などがあるが、いずれもこれらの分類に分類される自然数だけを対象として、巨大な素数を発見しようとしていると言うことです。これらの分類に属する自然数が全て素数ということではなく、下記のようにメルセンヌ数に分類される自然数でも合成数(下記で黒字の数)が多く、素数(下記で赤字の数)はそれほど多くない。

(注:竹﨑)

 

メルセンヌ数(メルセンヌすう、: Mersenne number)とは、2の冪よりも 1 小さい自然数、すなわち 2n − 1(n は自然数)の形の自然数のことである。これを Mn で表すことが多い。2進数表記では、n 桁の 11⋯11 となる。

1, 3, 7, 15, 31, 63, 127, 255, 511, 1023, 2047, 4095, 8191, 16383, 32767, 65535, …(オンライン整数列大辞典の数列 A000225から初項 0 を除いたもの。太字素数、素数を除いたメルセンヌ数はオンライン整数列大辞典の数列 A135972を参照)

Mn = 2n − 1 が素数ならば n もまた素数であるが、逆は成立しない (M11 = 2047 = 23 × 89)。素数であるメルセンヌ数をメルセンヌ素数(メルセンヌそすう、: Mersenne prime)という。

 

あとがき

素数はこの辺で卒業し、深入りは禁物。それが賢明と思う。もともと、ボケ防止の頭の体操が目的だったのだから。素数の出現法則は、はじめにも述べたように、素数が発見されておよそ2500年経っているが、いまだに発見されていない。素数の出現法則が解明されれば、素数判定法は不要になる。素数の根源的解明には興味はあるが、手を出す素養もない。興味は失せないが卒業とするのが賢明と心得た次第。

古典は万葉集と新古今集とを行きつ戻りつ気ままに今後もお付き合いと行きたい。

以上

                              2018年12月21日  竹崎記

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コメント

  • 鈴木直久 より:

    古典への郷愁の旅について  鈴木直久

    古典への回帰が日本人としてのアイデンティティーの確認になるという竹崎さんの見解に共感しました。
    現役時代、新潮古典集成が発行されたときに、退職したら読むつもりで興味のある作品を買っておいたので、一時期読み続けたのですが、新古今和歌集の途中で息切れして頓挫したままです。
    竹崎さんに刺激を受けて、新年から通読を再開したいと思います。
    さて、定家の一首は有名な三夕のうちの一首ですね。昔彼について少し調べて和歌の一つの頂点であると思っています。
    芭蕉はわたしが住む大津に縁が深い人で、墓は近くの義仲寺にあります。「山路来て」は実にチャーミングな句ですね。まえがきから、その山路は、逢坂峠を越える東海道の逢阪(大関)越えに対する脇道(小関越え)であることが分かります。家から近いので何度か歩きましたが、すみれの花が咲きそうもない何の変哲もない山道です。
    「石山の」の句の、石より白い風とはどういうものか気なって、二、三年前に粟津温泉からの帰途那谷寺に立ち寄りました。
    「閑さや」は奥の細道きっての名句であり、それに惹かれて立石寺を訪れた思い出があります。
    この機会に私の好きな名歌を一首ご紹介しましょう。定家の父俊成の作(千載和歌集)です。
     夕されば 野辺の秋風身にしみて
     鶉鳴くなり 深草の里
    深草にある京都医療センターで、昨年前立腺肥大の手術をしたので、一層思い出深い歌です。12月22日